「2022年列島クリーンキャンペーン」に参加しました。コロナ禍のため4年ぶりの開催となりました。清掃場所は和歌山市京橋で、ここは紀州徳川家の時代、江戸に向かう街道への一歩となった場所、つまり和歌山城からの起点になります。和歌山市の歴史上、とても重要な場所ですが、道標の前には自転車が置かれていることや、捨てられたゴミが散乱していることから清掃が必要となっています。和歌山市の顔ともいえる場所が散らかっていることは恥ずかしいことだと思います。
しかも「紀州の殿様」をイメージしたからくり時計は、長く故障した状態なので作動しません。本来であれば定刻になると「毬と殿様」の音楽が鳴っていたのですが、故障のため聴くことはできません。
以前から和歌山市に対して修理の依頼を行っているのですが「予算がない」との答えで修理しない状態が続いています。先週、「城下町ウォーク」で和歌山市駅から京橋を歩いたのですが、修理をしてくれないので既に紀州をイメージしているこの「からくり時計」の説明さえ省かれています。
故障のことはずっと紀州語り部さんから「案内するときに恰好が悪いので修理して欲しい」「これでは案内できない」と要望を受けているのですが、和歌山市からは「予算がない」の理由で放置されたままです。街の顔とも言える場所に設置しているものを「予算がないので修理しない」感覚は理解に苦しむものです。
とにかく、本日は動かない「からくり時計」を眺めながら清掃を行いました。秋が深まっていることから京橋広場の雑草は少なかったのですが、遊歩道には雑草が顔をだしゴミが散らかっていました。これも「城下町ウォーク」で歩いたときに「和歌山市のイメージが悪くなる」と感じたのです。今回の清掃できれいにするよう心掛けました。
驚いたことは橋の下には、空き缶、ペットボトル、カセットコンロのガス、消臭剤などが山積みになっていたことです。繰り返しますが、和歌山市の顔の場所であり、遊歩道は市民や観光客の皆さんがゆったりと歩く憩いの場所ですから、そこに大量のゴミが捨てられていることは問題だと思います。行政の管理の問題なのか、ゴミを捨てている市民のモラルなのか、とにかく驚くほどのゴミが捨てられていたのです。
汚い場所にゴミが捨てられるので、ますますゴミが捨てられていく。きれいな場所にはゴミを捨てにくいので街はきれいに保たれる。「割れ窓理論」です。管理者の管理が行き届いていなければ、ゴミが捨てられていくのでやがて山積みのゴミ捨て場になってしまいます。
中心地の街中にテレビも捨てられていた光景は異様に映りました。決して文化都市と呼べるものではなく、清掃しながら「街中で見たことのない気持ちの悪い光景であり陰湿な場所」だと感じたほどです。
本日のクリーンキャンペーン活動によって「山積されたゴミの山」は取り除ききれいになりましたが、管理や見回りをせずに放置しておくと、またゴミの山になってしまいます。ごみを捨てに来る人にとってこの場所は、心理的にゴミが捨てやすい場所になっているのです。
遊歩道は街の死角になっているのでゴミが捨てやすい場所だとすれば、犯罪が発生する場所にもなり兼ねません。安心と安全のためにも、この場所の管理者は十分に責任を持って仕事を遂行して欲しいところです。
とにかく参加者が力を合わせて京橋付近の清掃を行ったことで、街中をきれいにすることができました。清掃した結果、街がきれいになると気持ちが良いものです。きれいに清掃することで、清掃する人の心もまたきれいになるように感じています。
ごみを捨てる人よりも清掃する人が多い和歌山市であって欲しいものです。捨てる人よりも清掃する人が多ければ、必然的に町はきれいになっていきます。
結局、和歌山市をきれいに保つのは、私たち市民の美意識、モラルの問題に帰結すると思いますので、きれいな和歌山市を目指して諸活動を行いたいと思います。
参加者の皆さん、お疲れ様でした。