活動報告・レポート
2022年10月6日(木)
「ソ連侵攻から日本を護った樋口季一郎中将」
写真展
写真展

案内をいただいたので、ワカヤマフォトクラブ写真展に行って来ました。今回で27回目となる写真展には講師お二人と14人の会員さんの作品が出展されていました。夏から秋に向かう季節を感じさせてくれる作品が多かったように感じます。

また作品の中にはフラメンコ舞踊家の森久美子先生にシャッターを向けたものもあり「先生の作品がある」と、この発見を嬉しく思いました。芸術家が芸術家を撮影する。この撮影作業を思うと何となく感動しました。

良い作品を鑑賞させてもらいました。案内いただいたことに感謝しています。

玄人市場
玄人市場

和歌山市内の玄人市場の敷地内に、本日、バーベキューコーナーが登場しました。高い品質で評判の玄人市場のお肉を買って、そのままこのコーナーで楽しむことができるスペースです。和歌山市に新しい食のスペースが誕生しました。

「ソ連侵攻から日本を護った樋口季一郎中将」

「ソ連侵攻から日本を護った樋口季一郎中将」の話を行いました。ロシアのウクライナ侵攻が続く中、ウクライナの4つの州を強制的に併合したことから、大戦後にソ連がわが国の領土である北方四島に侵攻し、そのまま侵略し続けている歴史を忘れてはならないと思い、このテーマで話を行ったものです。説明用に配布したレジュメは次の通りです。

テーマ「ソ連侵攻から日本を護った樋口季一郎中将」について

  1. 昭和20年(1945)年8月6日。広島に原子爆弾が投下。
  2. 同年8月9日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。
    同条約の期限は1946年4月までだったのでソ連の参戦は条約違反であることは明白。
    8月9日からソ連は日本に侵攻を開始。
  3. 9日には満州に侵攻、11日から南樺太に侵攻。8月15日、ポツダム宣言を受諾。
    16日、大本営は戦闘行為の即時停止を命令し、やむを得ない自衛のための戦闘以外はすべて禁じられた。
  4. しかし樋口中将はこれまでのソ連との関りから「ソ連は侵攻を止めない。自衛戦争が必要になる」と結論を出していたのです。その予想通り南樺太への侵攻と共に、千島列島への侵攻を開始した。
  5. 千島列島の北端の島が「占守島」で8月17日から18日に日付が変わる前後の時間にソ連軍の上陸が始まった。
    このときの樋口中将の命令は「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」でした。この「占守島」でソ連軍を止めることができなければ、一気に南下して北海道まで侵攻することになります。ここでの戦いが、将来の日本の運命を決めることになるのです。
  6. 大本営はマッカーサー司令官宛てにソ連への停戦を依頼。司令官はソ連国防軍のアントノフ参謀長に停戦を求めたのですが、ソ連は拒否。
  7. 自衛戦闘をしながら日本はソ連と停戦交渉を続け、ソ連はようやく受け入れ交渉に入った。停戦が成立したのは8月21日、武装解除は23日から行われた。
  8. この時点での死傷者は、記録によると日本が600人から1,000人。ソ連が1,500人から4,000人とされている。
    日本は戦闘においてソ連に負けてはいませんでしたが、わが国が敗戦を受け入れている以上、武装解除に応じる以外に手段はなかった。
  9. 中将が決断して「占守島」での戦いをして有利に戦いを進めたので北海道は護られたのですが、自衛戦争をしていなかった、または敗れていれば北海道まで侵攻されていたはず。
  10. その証拠に8月28日に択捉島、9月1日には色丹島、9月2日は国後島、9月3日には歯舞群島に上陸、9月5日までに四島を占拠しています。
    北方領土は返還されていませんから、「占守島」での戦いでソ連と交戦したことで敵の侵攻するための時間を稼ぎ、北海道を護ったことになるのです。
  11. スターリンが北海道を占領する意思を持っていたことはアメリカとの話で明らかであり、アメリカのトルーマン大統領がスターリン宛の電報で「北海道占領は認めない」ことを鮮明にしていますから、ソ連の傍若無人の行為には閉口します。
  12. 樋口季一郎中将は「占守島」での戦について次のように語っています。
    「日本の歴史家は、日本の負け戦しか書かない。北方でソ連軍に勝った戦闘には、ほとんど目を瞑っている。それはそれで不自然なことだし、非常に残念なことだ」
    この思いは次の気持ちから来ているようです。
    「玉音放送後に行われた『占守島』での戦いは自らの決断、つまり『戦闘指示』で戦ったものであり、部下が死んでいったのである。戦死者への責任は自分にある。だからこそこの戦闘の意義をありのままに語り継いで欲しいとの願いがある」

「ソ連侵攻から日本を護った樋口季一郎中将」