令和4年10月2日の誕生日を迎えました。お祝いのメッセージをいただいた皆さんに深く感謝しています。皆さんからの言葉は元気に活動する糧になります。ありがとうございます。
待機している誕生日にあって思い出したのは令和3年の誕生日です。一年前に退職の日を迎えたのですが、あれからもう一年。月日の過ぎる速さに驚いています。
職場の皆さんに届けたその時、一年前のお礼の言葉です。
退職にあたって皆さんへのお礼の言葉
これまでお世話になりました。片桐章浩です。令和3年10月1日付けで定年のため退職することになりました。これまで支えてくれた皆様方には、大変お世話になりましたこと深く感謝申し上げます。
年月が経つのは本当に早いもので、入社してから今日までが一瞬で過ぎ去ったように感じています。現実が夢なのか、夢が現実なのかと思うばかりです。
入社した当時、定年退職される先輩方を見送る時、「(失礼な表現をお許しください)お疲れさまでした。でも随分とくたびれた感じがするなぁ」と思うこともありました。
そして自分が定年の日を迎えることは想像すらできないものでした。いつか自分のところに訪れることさえ想像していませんでした。
しかし令和3年10月1日。会社を去る日が訪れたことを自分でも驚いていますし、「これまで実に多くの人に支えられてここまでやってこれた」と思って、感謝の気持ちでいっぱいになっています。
振り返るとこれまで、どれだけ多くの方に支えられてきたことでしょう。卒業された先輩、同僚、そして後輩の皆さんには、感謝の言葉は伝えきれないほどありますが、皆さんに届くような感謝を表す語彙を持ち合わせていないことを残念に思います。
特別、恵まれた才能も能力もない僕がここまでやってこれたのは、職場の皆さんのお陰だと感謝しています。これまで多くの出来事があったけれども、支えてくれたこと、励ましてくれたことで、今があると思っています。実に幸せで充実した会社生活だったと思いますし、それがあるのはこの会社に入社できたことであり、皆さんに出会えたからだと思います。
人は仕事を通じて成長するものであり、議論と行動によって更に成長できるものだと思います。そんな環境にも恵まれたことや、職場でご一緒できたご縁によって成長を続けられてきたと思います。
いま振り返ると、電力会社でありながら社外での企業広報や地域との交流ができる仕事に携われたことが現在につながっていますし、そのことで少しは会社に貢献できたこともあるのかなと思っています。
会社生活での主な思い出は、和歌山火力発電所立地や御坊第二火力発電所の賛同を得るための広報や環境影響調査に係る仕事に携わったことがあります。(もちろん計画は中止、実現しませんでしたが)その関係で南港発電所や姫路第二火力発電所の見学会を実施したことも懐かしく思います。
またジャパンエキスポ世界リゾート博のPRと当社イメージ向上の仕事に携われたこと。同じく和歌山県が主催したジャパンエキスポ南紀熊野体験博実行委員会に出向して博覧会と和歌山県の広報活動と共に、関西電力の社名を高めるよう取り組んだことも思い出です。
そして会社生活の最大の思い出の一つがアメリカ研修に派遣されたことです。社内試験に合格した後に待ち受けていた本店での英語勉強会。そして研修期間中は全て英語を使って過ごすことを求められて大変だったことを覚えています。
研修会の1988年の日本は経済大国の栄華を誇る黄金時代で、世界を席巻した「日はまた昇る」の時代でした。もう「アメリカに学ぶものはない」と言われていましたが、実際のアメリカは違いました。現代につながっている禁煙社会、健康価値、お客さんへの良質なサービス、資源を有しての贅沢な生活と仕事環境、資源があるにも関わらず既に始まっていた新エネルギー活用、仕事のオンとオフの切り替えなどが実践されており、学ぶことはたくさんありました。
このようにアメリカに派遣されたことで視野が広がり価値観が一変しました。人とのコミュニケーションが取れることと経験を重ね続けることが仕事上の最大の武器であり、度々、襲ってくる不安や困難を乗り越えていけることに気づくことになったからです。アメリカ人流の、小さなことに悩むことなく、いつも明るく元気に過ごすことも大切だと理解しました。
帰国後、社内報にアメリカ研修の記事を書いたところ、当時の副社長から「是非、話を聞きたい」と連絡を受けたことも良い思い出です。28歳の社員にとって、社会人として自信を得るのに十分な出来事でした。
後輩や若い人に対して「期待しているよ」と声をかけることは大きな励みと自信になることですから、是非とも実践して欲しいと思います。
また組合にも本当に大変お世話になりました。素晴らしい会社と行動力のある組合の両方の活動が出来たことも、会社生活で幸せをいただいた要因です。
青年部地区リーダーとして2年間活動させていただいている時、地区役員から「本部の青年リーダーを引き受けて欲しい」と要請があり、深く考えることなく引き受けたことが、その後の組合活動の始まりです。22歳から29歳になるまで活動の舞台を与えていただき、多くの出会いと成長を感じました。最終は「チーフリーダー」としてチームで仕事をする楽しさと、チームをまとめることの難しさも学びました。
この時に1988年の中国、上海などを視察しましたが、「その後に沿岸に経済特区をつくり、そこで資本主義を受け入れて発展していく」ことは想像もできないことでした。この時、本部役員とのご縁が後につながることを知る由もありませんでした。
40歳の時、和歌山市議会議員に立候補することを決意して、支店支部(当時)に相談に行ったことも転機でした。橋本営業所の時の後輩が支部委員長をしていたのですが、きっと「あり得ない」と思うであろう話を聞いてくれて、この無謀な挑戦をすることの味方になってくれました。恐らく「考え直して欲しい」と内心は思っていたと推察しています。
組織として認められないはずの小さな一歩でしたが、委員長、支部役員の皆さん、職場の皆さん、そして育ててくれた先輩方の声と行動によって、地区本部、本部の同意をいただき、組織推薦を受けたのです。
ただ選挙は経験したことがなかったので、この時の役員の皆さん、職場の皆さん、会社の支援がなければ当選の結果はなかったと思います。41歳で初当選を果たせたのも皆さんのお陰であり、この時、当選の結果が出ていなければ、もっと早く職場を去っていたと思います。
そして市議会への初登頂の前日の夜、不安から眠ることが出来ませんでした。「果たしてやっていけるのだろうか」「レベルが高いだろうな」などを考えてしまい、眠つけないまま朝を迎えたのです。
その時に助けてくれたのが会社の看板です。和歌山市役所に行くと「電力出身ですからね」と、どこに挨拶に行っても会社名で迎えてくれたのです。これは会社の信頼であり、先輩の皆さんが会社の信頼を勝ち取ってきた証だったのです。最初から多くの信頼と期待をもって迎えてくれたことで不安が誇りになりました。
皆様方には、この素晴らしい会社で仕事が出来ていることに感謝して欲しいと思いますし、厳しい時代ですが今まで以上に誇りを持って地域社会に出て行って欲しいと思います。この会社の名前は、社会において今も強い立場を作ってくれているのです。
和歌山市議会議員を一期務めさせていただいた時、再び無謀にも「県議会に挑戦する」ことを支店支部(当時)、地区本部に伝えたところ「また大変なことを言い出して・・」と思ったと感じています。
しかし有り難いことに組織は味方になって支援し続けてくれました。それから県議会議員として四期を迎えていますが、その間、思うように活動させてもらえたこと。どんな場合でも仲間として励まし続けてくれたこと。発言と行動に期待し続けてくれたことに深く感謝しています。
それにも関わらず、いまだ会社、組合、そして支えてくれた皆さんに十分に恩返しができていないことを残念に思い、お詫びするばかりです。
10月1日を以て退職しますが、会社と組合、そして皆さんへの感謝の気持ちを持ち続けていますし、ご恩返しをさせていただくために、これから「やれることがある」と信じています。
電力はこれまでない厳しい時代に突入していますが、この競争を勝ち抜いて、強くて誇りのある会社でいてくれることを信じています。会社が強くて誇りがあるということは、この会社で働く皆さんが強くて誇りを感じているということです。これからも関西でNO1の会社であるばかりか、日本から認められる会社であって欲しいと思いますし、発展し続ける会社であって欲しいと思います。
これまでお世話になった皆さんに心から感謝申し上げ、長いようで短かった会社生活を充実して楽しいものにしてくれたことにお礼申し上げます。皆さんからの支えがあって、この日を迎えることが出来ました。
最後になります。いま、高校の時から座右の銘にしている「明日は今日より素晴らしい」ことが正しいことだと実感していますし、好きな言葉「微差は大差」は本当だと感じています。日々の小さな出来事の積み重ねが、やがて大きな差となって現実のものとして表れることになります。
お世話になった皆さんの会社生活が素晴らしいものになり、幸せを感じながらの仕事と生活が過ごせますことを心から祈念しています。ありがとうございました。