活動報告・レポート
2022年10月1日(土)
指揮官の決断
指揮官の決断

早坂隆氏の「指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎」を読みました。この評伝に引き込まれ一気に読んでしまいました。改めて中将がいたからこそ、わが国が護られたのだと思いました。先の大戦では真珠湾攻撃から沖縄決戦まで、南方でのアメリカとの戦いの歴史は伝えられていますが、北方でのソ連との戦いは伝えられていません。太平洋決戦に備えて北方の軍備が手薄になっている中、懸命にソ連と対峙したことで北海道侵攻を阻止しています。

もし歴史が樋口季一郎中将を登場させなかったとしたら、わが国は樺太、千島列島から北海道にまでソ連軍に侵攻され、場合によっては東北まで上陸されていた可能性もあります。まさに東西ドイツや南北朝鮮のように国家が分断されてしまい、大戦後のわが国の体制は変わっていたかもしれないのです。わが国を護ってくれた中将に感謝の念が沸き起こりました。

昭和20年(1945)年8月6日。広島に原子爆弾が投下されましたが、同年8月9日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告をしてきたのです。参考までに同条約の期限は1946年4月まででしたから、ソ連の参戦が条約違反であることは明白です。

しかし8月9日からソ連は日本に侵攻を開始します。9日には満州に侵攻、11日から南樺太に侵攻したのです。中将は8月14日にポツダム宣言を受諾したことを知り、翌15日にわが国は敗戦となりました。

16日、大本営は戦闘行為の即時停止を命令し、やむを得ない自衛のための戦闘以外はすべて禁じられたのです。

しかし樋口中将はこれまでのソ連との関りから「ソ連は侵攻を止めない。自衛戦争が必要になる」と結論を出していたのです。その予想通りソ連は南樺太への侵攻と共に、千島列島への侵攻も開始したのです。千島列島の北端の島が「占守島」で8月17日から18日に日付が変わる前後の時間にソ連軍の上陸が始まったのです。

このときの樋口中将の命令は「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」でした。この「占守島」でソ連軍を止めることができなければ、一気に南下して北海道まで侵攻することになります。ここでの戦いが、将来の日本の運命を決めることになるのです。

中将はソ連軍と自衛戦争を続けながら「今未明、占守島北端にソ連軍上陸し、これをむかえて自衛戦闘続行中なり。敵はさきに停戦を公表しながら、この挙に出るははなはだ不都合なるをもって、関係機関より、すみやかに折衝せられたし」と大本営に打電をしたのです。大本営はマッカーサー司令官宛てにソ連への停戦を依頼したことを受けて、司令官はソ連国防軍のアントノフ参謀長に停戦を求めたのですが、ソ連は拒否したのです。

自衛戦闘をしながら日本はソ連と停戦交渉を続け、ソ連はようやく受け入れ交渉に入ったのです。停戦が成立したのは8月21日、武装解除は23日から行われたのです。

この時点での死傷者は、記録によると日本が600人から1,000人。ソ連が1,500人から4,000人とされています。

日本は戦闘においてソ連に負けてはいませんでしたが、わが国が敗戦を受け入れている以上、武装解除に応じる以外に手段はなかったのです。

中将が決断して「占守島」での戦いをして有利に戦いを進めたので北海道は護られたのですが、自衛戦争をしていなかった、または敗れていれば北海道まで侵攻されていたはずです。

その証拠に8月28日に択捉島、9月1日には色丹島、9月2日は国後島を占拠しているからです。言うまでもなく北方領土は返還されていませんから、「占守島」での戦いでソ連と交戦したことで敵の侵攻するための時間を稼ぎ、北海道を護ったことになるのです。

スターリンが北海道を占領する意思を持っていたことはアメリカとの話で明らかであり、アメリカのトルーマン大統領がスターリン宛の電報で「北海道占領は認めない」ことを鮮明にしていますから、ソ連の傍若無人の行為には閉口します。

樋口季一郎中将は「占守島」での戦について次のように語っています。

「日本の歴史家は、日本の負け戦しか書かない。北方でソ連軍に勝った戦闘には、ほとんど目を瞑っている。それはそれで不自然なことだし、非常に残念なことだ」

この思いは次の気持ちから来ているようです。

「玉音放送後に行われた『占守島』での戦いは自らの決断、つまり『戦闘指示』で戦ったものであり、部下が死んでいったのである。戦死者への責任は自分にある。だからこそこの戦闘の意義をありのままに語り継いで欲しいとの願いがある」のです。

覚悟を持った決断だったのです。樋口季一郎中将の決断、生き方に感銘を受けました。