第二回目となる「うたかたライブ」に参加しました。主催はFプロジェクトで、みんなが歌える昭和の馴染みのある歌を中心に演奏してくれました。懐かしいけれど現代でもメッセージ性のある曲を演奏してくれたこと。そして8月は先の大戦の終戦の月であることから「サトウキビ畑」と「椰子の実」の演奏もありました。Fプロジェクトのライブは何時も感動させられていますが、今回は「うたかたライブ」なので、みんなで歌うこと、語ることがテーマになっています。そのため前半と後半の間の時間に、和歌山市の空襲を体験した数名の方がそのときの話を語ってくれました。
昭和20年7月9日、和歌山市が米軍からの空襲を受けました。それまでも何度も空襲警報が発令されていたのですが、この日は「逃げなければならない」と思うほど、状況は緊迫していたそうです。当時、子どもだった語り手の皆さんは、両親が普段と違う様子だったことから「逃げなければ」と子ども心に思ったそうです。
今日、空襲の話を語ってくれた皆さんは昭和12年生まれの方が多く、当時は8歳の子どもでした。そんな皆さんは「今でも体と心に記憶が刻まれている」と話してくれたように、「絶対に戦争はいけない」と改めて誓い合うライブのひと時となりました。
Iさん。「市内に住んでいたので空襲のときの怖さは忘れることはできません。自宅から京橋方面に逃げたのですが市堀川に大勢の人が浮かんでいたのです。子どもだった私は直ぐに何が起きているのか分かりませんでした。時間が経過してここで起きていることが理解できました。浮かんでいる人は戦火に巻き込まれた人達で、熱さで川に飛び込んで亡くなった人達だったのです。市内中心部は空襲で赤く燃え上がり、町の光景はなくなってしまいました。小学校6年になるまでこの光景は頭から離れませんでした。戦後77年が経過しています。空襲体験のある人は少なくなっています。平和な時代を77年間過ごしてきたことで、平和な日本が当たり前だと思ってはいけないと思います」
Nさん。「私も市内に住んでいました。空襲の日は両親とともに逃げました。防空壕に逃げるのが本来の逃げるルートでしたが、両親の判断でその日は紀の川方面に向かったのです。逃げるとき両親は私にたっぷりに水を含ませた冬用のオーバーを着せてくれました。当時、それぞれの家には水を蓄えておく『用水』槽があり、そこで衣服に水を染み込ませたのです。『私は、夏なのにこんなに生地が厚いオーバーを着せられたのは何故だろう』と思ったのですが、それは逃げているとき、ガラスや倒壊してくる塀の破片から身を護るためだと気づいたのです。そして北島橋に辿り着いて紀の川を渡りました。その時、北島橋を埋め尽くすぐらいの死体がありました。それはショッキングな光景でした。紀の川の北側に避難した私が後に見たのは真っ赤な炎に包まれて崩れ落ちていく和歌山城の天守閣でした。私達は紀の川駅に逃げ込み、そこを避難場所としたのです。戦争は二度と起こしてはいけません。平和な時代を継続させなければならないのです」
Yさん。「空襲までの日も頻繁に空襲警報が出されました。しかし子どもだった私達はトンボをつかまえたり遊んだりと、大人の心配をよそに日常を楽しんだ時間がありました。しかし空襲のあった昭和20年7月9日の様子は違いました。私の家は中心部ではなかったのですが『逃げなくては』と思いました。戦争の後、母親と戦没者の墓地を訪ねる機会が幾度とありました。子どもでしたから石段に座ったりしていたのですが、黒服にパールの首飾りをつけた女性が、大勢御参りしていた光景を覚えています。きっと戦争や空襲で亡くなった家族のお墓参りだったと思うのです。今ではその墓地に御参りする人は少なくなっています。その遺族の方々もお亡くなりになっているのでしょう。和歌山市の空襲のことを語れる人が少なくなっています。記憶を消さないようにしなければと思っています」
そして僕からも挨拶をさせていただきました。
8月は終戦の日でもあり「椰子の実」の演奏もしてくれたことから、先の大戦のとき、南樺太で起きた事件を話したいと思います。わが国がポツダム宣言を受諾した後にソ連軍が日本の領土である南樺太に侵攻してきました。降伏した後の侵攻は明らかに国際ルールに違反しています。そのソ連軍侵攻の情報を伝えてくれたのが、真岡郵便局で勤務していた電話交換手の女性達でした。彼女達は最後の最後まで使命を果たしてくれたお陰で、命を落としてまで情報を発信してくれたお陰で北海道と東北が護られたのです。
後にソ連のスターリンはアメリカのトルーマン大統領に「北海道と東北をもらう」ことを話していたことから、彼女達や南樺太をソ連軍の侵攻から護ってくれた人がいなかったら、その後、ソ連の領土になっていたかもしれないのです。
稚内市は日本の最北端に位置しています。この丘に「九人の乙女の像」が建立されていて、遠く南樺太を見つめています。南樺太で起きた出来事を忘れないために稚内市を訪れることで、二度と戦争を起こしてはならないことを伝えられると思います。
現在、ロシアがウクライナに侵攻しています。わが国にとっての北の脅威はなくなってはいません。歴史を忘れることなく語り継ぐことで国を護ること。8月はこのことを考える月にしたいと思っています。
今年の「うたかたライブ」は歴史と平和を考える演奏、そして和歌山空襲の体験者の話がありました。夏の終わりに相応しいライブになりました。
ぶらくり丁に「スリランカ料理店」があります。スリランカ人のサラさんが経営しています。知人から「スリランカから和歌山市に来て頑張っているので応援してあげてください」と依頼があり、ライブの後に訪ねました。
サラさんは店内で仕事の打ち合わせをしていましたが「片桐さんが来てくれることを聞いています」と温かく出迎えてくれました。打ち合わせの途中でしたが、一緒に懇談の時間を確保してくれました。
そこで「世界の中の日本の存在とは」「平和を維持することがどれだけ大変なことなのか」「本当の外交力」などについて話し合いました。日本の常識と世界の常識は違うので、純日本流が世界で通用しないことを分かる必要性を感じました。何しろ日本が対等になるべき交渉をしている相手は世界の大国ですから強い人脈と力が必要です。和歌山市にいながら世界の話ができることを嬉しく思います。