活動報告・レポート
2022年8月21日(日)
陸奥宗光伯歿後125回忌、坂本龍馬歿後154回忌
陸奥宗光伯歿後125回忌、坂本龍馬歿後154回忌
陸奥宗光伯歿後125回忌、坂本龍馬歿後154回忌 陸奥宗光伯歿後125回忌、坂本龍馬歿後154回忌

高野山無量光院で「陸奥宗光伯歿後125回忌、坂本龍馬歿後154回忌」の法要を行いました。まず住職から陸奥宗光伯に所縁のある同寺院の中から「陸奥宗光伯の肖像画の掛け軸」が発見されたことを教えてもらいました。「修復師に依頼したところ『痛みが酷くて掛け軸として再生は難しいので額に入れておく方が良い』と意見をもらったので額に入れました」と法要の場に持って来てくれました。

拝見したところ、写真の陸奥宗光伯よりも幾分優しい表情をしていました。これは「不平等条約改正を終えた後のお顔ではないでしょうか。安堵感が感じられます」とその表情から勝手に解釈して会話を楽しみました。

陸奥宗光伯歿後125回忌、坂本龍馬歿後154回忌

さて毎年、陸奥宗光伯の法要を実施しているのですが、今年は坂本龍馬の法要も同時に執り行いました。その理由は、令和6年に全国龍馬会主催の「龍馬World in和歌山」を開催することが決定していることから、令和6年に向けて両雄の法要を執り行うことにしたものです。住職は丁寧に二人の偉人の法要を執り行ってくれました。幼少の陸奥宗光が和歌山市から高野口町に追放されたのですが、そのとき高野口町の岡家にお世話になり「この子の才能を生かすために江戸に行かさなければならない。そのために無量光院を紹介しよう」との結論になりました。紀州藩を追放された身のため江戸に行くことはできなかったので、お寺の所属している身として江戸に行かそうと考えたのです。

陸奥宗光伯歿後125回忌、坂本龍馬歿後154回忌

無量光院は岡家からの依頼を引き受け、宗光を江戸の屋敷におくったのです。そこから運命は展開していくことになりますから人生は分からないものです。江戸に行ったことから、やがて勝海舟や坂本龍馬と出会うことになるのですが、一人でも出会いが欠けていたら陸奥宗光伯は違った人生を歩いていたかもしれないのです。そんな人生の不思議を感じながら法要に参列していました。

そして陸奥宗光伯が政界に入ってから時を経た後、小さい頃にお世話になったお礼を伝えるために高野口町の岡家を訪ねたと聞きました。当家と楽しく酒を酌み交わしたそうですが、高野口町の人々の包容力が、後の外務大臣を育てたように感じます。勿論、宗光が父の影響で国学を身に付けていたことや素質があったのでしょうが、苦難の時代に出会った人たちの優しさと支援が人格形成と、運命の扉を開いてくれたように思います。

陸奥宗光伯歿後125回忌、坂本龍馬歿後154回忌 陸奥宗光伯歿後125回忌、坂本龍馬歿後154回忌

このご縁から、無量光院には陸奥宗光伯の位牌があるのです。毎年、陸奥宗光伯の法要を実施していることから、寺院からは「毎年8月中は陸奥宗光伯の位牌を前にしてお経を唱えていますのでご安心ください」と話してくれました。

これも毎年法要を実施していることがご縁となって、私達と寺院との間で継続している取り組みです。

令和4年8月21日。今年の夏も無事、法要を執り行うことが出来ました。いつもと違うところは、今回は先輩である坂本龍馬さんと一緒の夏になったことです。二人の偉人によって紀州と土佐の絆がさらに深まったと感じています。

十里松
十里松 十里松

陸奥宗光伯が9歳のとき、和歌山市を追放されて高野口町に辿り着いています。和歌山城から数えて十里のところまで追放されたのです。その場所が十里松のあるところです。幼い宗光は約40km離れた高野口町に一人でやって来たのです。その時にお世話をしてくれたのが同町の岡家や玉置家だったのです。

玉置家には幼い宗光が食事に供したとされるお茶碗などが残っていますし、岡家には宗光から受け取った手紙が残っていると聞きました。記録にはない事実が口述や残されたものから推察することが出来ます。

そして十里松を護ってくれているのが十里松顕彰会の西岡裕宣会長です。当時の十里松は枯れて現存していませんが、代替わりして現在は5代目の十里松が存在しています。この松は西岡さんの家の敷地内にあり、西岡さんは「陸奥宗光伯が一人で不安を抱えて訪れたときに見守ってくれた松ですから、今も大切に護っています」と話してくれました。

十里松

生憎の雨天でしたが西岡さんは「片桐さんが来てくれると聞いて嬉しくてたまりませんでした。しっかりと説明したいと思います」と雨の中、熱心に説明してくれました。

和歌山城から数えて一里のところに現在も松があります。その一里松は和歌山市が管理していますが、そこから一里おきに松が植えられていて、高野口町は10本目の松が植えられています。そのため十里松と呼んでいますが、実際は一里おきに植えられた松なので、どの場所の松も一里松と呼ばれています。

そして十里松と陸奥宗光伯のことを、時代を超えて伝えるために十里松顕彰会をつくりました。松を護り維持すること、陸奥宗光伯のことを伝えることを目的にしているので、この顕彰会は絶やすわけにはいきません。

今日、西岡さんが雨の降る中でも歓迎してくれたのは「陸奥宗光伯の高野口町での思い出や志を引き継いでくれる人に話を聞いてもらいたい」という思いがあってのことだと推察しています。

ようやく陸奥宗光伯が出会った十里松を訪れることができました。陸奥宗光伯の新しい物語が追加されようとしています。史料が存在していなくても地元で伝えられている口述は事実だと考えています。

十里松 十里松

特に幼い陸奥宗光伯は紀州藩から追放されたので、迎え入れた人達は、そのことを記録として残すことはしなかったと考えるのが普通です。隠密裏にお世話をして高野山におくり、江戸への道を開いたと思うのです。史料の残っていることから事実を繋ぎ合わせていくように、口述で伝わっていることも記録のない空白の時を埋めるために必要な事実だと考えます。地元が大切に護り伝えてきたことを、和歌山県が否定することは許されません。

60年以上も十里松を護り、地元で伝わる話を語ってきた西岡さんの年月は軽いものではないのです。顕彰することとは事実を知り、学び、後世に伝えることです。地元の十里松を顕彰し続けて活動していることが事実である証左だと思います。

十里松の案内と説明をしてくれた西岡さんに深く感謝しています。歴史はその出来事があった場所を護ってきた人が語ってくれています。