活動報告・レポート
2022年8月20日(土)
樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会
樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会
樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会 樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会

久野潤先生が主催した「樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会」に参加しました。開催場所は大阪護国神社で、将軍の孫である樋口隆一氏から樋口季一郎氏に関わる講演を聞かせてもらいました。

まず大阪護国神社本殿での顕彰祭では、先の大戦でソ連軍の侵攻を予測して対抗してわが国を護ってくれた樋口季一郎将軍を顕彰することがとても大切なことを教えていただきました。偉人を顕彰することは、何のために命を賭して使命を果たしたのかを学び、それ以降の歴史で同じことを繰り返さないように、その行動に隠された志を伝えることにあります。弔うのではなく顕彰することの意味を知ることが大事なことで、年に一度であっても顕彰することは忘れないためでもあるのです。偉人の志を知り得た人が顕彰しないでいると、やがて世の中から忘れ去られて世に出ることは難しくなってしまいます。

樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会

将軍も歴史の中で忘れ去られようとしていましたが、地元の淡路島と大きな功績を遺した北海道で多くの人が「顕彰して後世に伝えたい」と思い行動した結果、その功績が蘇ろうとしています。地元の方々の熱意が偉人を蘇らせているのです。

故郷の淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮に樋口将軍の等身大の銅像が建立されることになりました。孫の樋口隆一さんが会長を務める顕彰会が今建立し、樋口将軍の命日である今年の10月11日に式典を行う予定であることを、同神社の宮司である本名孝至氏が話してくれました。

さて顕彰祭を終えた後、樋口隆一氏の講演を聞かせてもらいました。親族の話なので功績と共にその人柄が理解できる内容でした。以下に主な内容を記します。

樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会

1925年から1928年までポーランド公使館付武官としてワルシャワに勤務しています。そのとき交流を深めるため、当時のヨーロッパで流行していたワルツを習います。その結果、ワルツの名人となり社交界で人気者となったのです。人気が出ると王族や名家からお呼びがかかるようになります。そこでの交流から人脈を広げていくことになります。人脈イコール情報ですから、樋口氏のところにヨーロッパの情報が集まるようになっていくのです。

ところが社交界の人気者となった樋口を妬む日本人が出現するのです。「樋口は遊んでばかりいて仕事をしていない」という噂を流すのです。人気があると妬まれるのは何時の時代でも、どこの世界にもあることです。噂話は根拠のないことが大半ですが、樋口氏は日本人の間で噂話になるほど社交界で人気者になっていたのでそんな日本人を相手にせず、ますます人脈を広げていったのです。

1939年、参謀本部第二部にいた樋口氏はポーランドを得ようと考えているドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」を破棄することを予測します。そこでヨーロッパの要衝であるバルト海沿岸の三か所に謀報拠点を設置します。ストックホルムに小野寺信武官、ヘルシンキに小野打寛武官、そしてカウナスに杉原千畝領事代理を配置するのです。これがのちにユダヤ人をポーランドとリトアニアのユダヤ難民に「命のビザ」を発行して逃す役割を果たすことになっていきます。

1943年。北方軍司令官にとなり、アッツ島玉砕、キスカ島撤退を指揮して北海道を護ることに務めます。

1945年8月6日。ソ連軍は満州と樺太で侵攻を開始します。ソ連は「樺太、千島、北海道侵攻計画」を策定して侵攻を開始することになりました。

1945年8月15日。ポツダム宣言を受諾したとき、涙を流すことなく「来るべきものが来た」と冷静に判断をします。ソ連軍が樺太と北海道、そして東北に侵攻することを予測していたのです。「ソ連は突然行動を起こす国ではなく用意周到な国なので、絶対に侵攻してくる」と予測して対抗措置を取ります。

樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会

1945年8月16日、ソ連のスターリンはアメリカのトルーマン大統領に対して、満州、朝鮮北部、南樺太、千島、北海道北部の領有を要求したのです。

1945年8月18日、ソ連軍は占守島にも無警告上陸しますが、日本軍は反撃を行います。占守島と南樺太でのソ連軍への抗戦を行ったことでソ連の侵攻を止めるとともに、北海道侵攻を防ぐことになったのです。わが国はソ連との情報戦に勝利したことになります。

1945年8月19日。トルーマン大統領がスターリンに対して「北海道北部領有」を拒否します。同年8月22日、スターリンはトルーマン大統領に対して文書で「北海道占有断念」を伝えます。

樋口季一郎氏はソ連軍の北海道と東北への侵攻を防ぎ、わが国を護ったその人なのです。

樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会

護った力は「遊び」と思われるような社交界での活動で築いたヨーロッパとの人脈、多くのユダヤ人を救ったことによる人脈から、情報を得るしくみを作ったことにあります。情報からソ連の動きを予測して対抗したことでわが国を護ったのです。

これも先の大戦であった隠れた歴史です。偉人を顕彰すること、歴史から学ぶこと、後世に伝えること。これが歴史を学んでいる私達のすべきことです。

この講演会に参加して本当に良かったと思っています。参加したきっかけは久野先生から案内をいただいたことに加え、和歌山県隊友会の奥野さんから「ソ連の侵攻から日本を護ってくれたのが樋口季一郎中将です。この人がいなかったら、日本はソ連とアメリカに分割統治されていたと思います。護れた理由は情報を得る力と、大本営に逆らってでもソ連に対抗したことです。樋口季一郎の功績も知ってください」と聞いたことが大きな理由です。「そんな凄い人がいるなら調べてみよう」と思っていたところに樋口隆一氏の講演の案内をいただいたので、参加することにしたのです。

樋口季一郎将軍顕彰祭&樋口隆一氏記念講演会

学びの一日になったのは奥野さんのお陰ですから、心から感謝しています。そして奥野さんが樋口季一郎氏のことを伝えてくれたのは「氷雪の門にある歴史を忘れないために毎年、稚内市を訪れていること」の新聞記事を読んでくれたからです。自らの行動が結果として跳ね返ってくることを感じています。

堺市視察
堺市視察 堺市視察

堺市にある「妙国寺」「千利休屋敷跡」「仁徳天皇陵」を視察しました。元堺市議会議員の水ノ上さんの案内で堺市の歴史を学びました。妙国寺は織田信長と徳川家康が好んで宿にしたお寺で、今も所縁のものを所蔵しています。

説明を受けた中で印象的な出来事が本能寺の変の話です。本能寺の変のとき、徳川家康は妙国寺に宿泊していました。明智光秀が謀反した知らせを聞いたとき、家康を護る武将は50人。家康は明智光秀が直ぐに妙国寺を攻めてくると覚悟して「これまでか」と思ったそうです。

ところが妙国寺の娘さんと伊賀の諜報員、つまり忍者が恩義を感じている家康を逃がそうとします。それぞれ奈良と伊勢に所縁があることで、二人は奈良を超えて伊勢に入って逃げる道を選択したのです。

堺市視察

堺市に滞在していたので通常であれば海路で静岡県に逃げるルートを選択するところですが「光秀のことだから、きっと海路を封鎖しているので船を使えばやられてしまう」と判断して険しい陸路を選択したのです。

案の定、囮として船を出したところ、その船は光秀軍の船に見つかり捉えられてしまったのです。この時、家康が早く逃げようと海路を選択していたら、歴史は変わっていたかもしれません。

歴史はおもしろい。そう感じる出来事です。