活動報告・レポート
2022年7月24日(日)
叔父さんとの話
感染拡大で仕事が増加

市役所の職員さんと話を交わしました。和歌山市内でも感染が拡大しているので「保健所の業務が増えている」状況になっています。さらに「マイナポイントの登録を呼びかけていることや和歌山市長選挙への対応など市役所全体の仕事が増えている」ようです。

本来の業務に加えて以上のような応援業務があり、また職場でも感染対策をしながらの仕事をしているので、市役所の仕事は思っている以上に大変な状況にあることを知りました。

民間企業もそうですが市役所もギリギリの人員配置にしているので、不測の事態に対応するには相互応援の体制をとっています。物事は外から見るのと内部の話を聞くのとでは全く違いますから、関係者の話を聞くことや一次情報まで辿り着くことで真の姿が見えてきます。実際を知らない外からの意見や評論に惑わされることなく、本質を確かめながら物事に対応したいものです。

叔父さんとの話

叔父さんが亡くなり家族葬を執り行いました。叔父さんは母親の4つ違いの弟で満84歳なので、偶然ですが母親と同じ年齢でのご逝去となりました。心からご冥福をお祈りしています。母親の下には弟が二人いるので、兄弟で残ったのは一人だけになってしまい「いよいよ一人っ子です」ということになりました。

通夜式のあと話を聞かせてもらいました。

父親は戦死、母親は38歳のときに癌で亡くなりました。父親が戦死したとき僕は3歳だったので記憶はありません。母親が亡くなったとき、姉は中学生だったので姉と小学生だった長男は苦労したと思います。僕と姉は8歳違いなので姉というよりもお母さんという感じでした。両親とも亡くしたのは姉が中学生のときで、幼い二人の弟の面倒を見ながら学校に通っていたので、お母さんのような存在でした。

僕が働くようになったとき、姉は結婚して和歌浦に住んでいました。章浩が生まれたときから体が弱くて、姉からは何度も「病院に送って」と連絡があり、和歌浦に迎えに行ってから病院に行きました。章浩は小さい頃はとても体が弱くて年中、風邪ばかりひいていました。今は健康で体が強くなっているので嘘みたいな話ですが。

そして僕は和歌山市を離れて大阪市内に働きに行くことになりました。大阪市で働くことになったので姉は心配して、何度も電話をくれていました。本当にお母さんのような存在でした。

章浩が議員になってから、お母さんのつきあいはとても広くなっていきました。それは自分が楽しむためにみんなと旅行に行っていたというよりも、章浩のために多くの人と友達つきあいをしてボランティアや旅行に出掛けていたと思いますよ。両親を早く亡くしたので若い頃は弟のために、それ以降は章浩のために生きたように思います。弟の世話から始まり選挙の手伝いまで、本当に苦労ばかりの大変な人生でしたが、でも幸せな人生だったと思いますよ。姉は中学校を卒業して弟の面倒を見て就職させてくれましたし、子どもを一所懸命に応援して生きた姉でしたから。そんな姉が亡くなったとき、僕はお母さんが亡くなったように思い、寂しかったことを覚えています。

僕も今年で81歳になりましたから、この先は長くなくなってきました。昨年、コロナに感染したときは無意識の状態が10日間も続いたので「もう駄目」と思われた時期がありました。

医師が呼吸器をつけて治療してくれたので助かりましたが、入院が一か月、リハビリに二か月要したので、回復するまで通算三ヵ月もかかりました。やはりコロナは怖いですから罹患しない方が良いに決まっていますから、人と会う機会が多いので気をつけてください。

と話してくれました。

心に沁みる話を聞かせてくれました。叔父さんは今頃、母親と会うことができているのでしょうか。今度は苦労のないときを過ごせることを願っています。