同級生のところへ髪の毛のカットに行ってきました。夏を前にして少し短く切り込んでもらいました。同級生なので、カットをしてもらいながら会話を楽しめてリラックスできる時間となります。16歳のとき同じクラスだったときからのつきあいなので、もう45年になっています。このことをお互いが話して驚いているのは毎回のことですが。
そして僕の予約の次にカットの予約をしていたお客さんが、同じく高校の同級生でした。彼は卒業後、大学の中国学科で学び、その後、台湾や中国で仕事をしてきたキャリアを持っています。
1970年代の当時はアメリカとソ連の二大大国の時代で、まだ中国は開発途上にあり先進国の仲間入りをしていなかったのです。そんな時代に中国語を学ぶことについて「中国語を学んでも役立たないのでは」と話をしたことを覚えています。ほとんどの同級生は中国語を選択することはなく、記憶の中ではその選択をしたのは彼一人だけだったと思います。
しかし彼には大変な先見性があったのでしょう。卒業後は中国語を生かせる仕事に就き、わが国と中国そして台湾を結ぶ仕事をやってきました。経済成長に向かう中国をビジネスの現場、しかも大陸と台湾の内部から見届けてきたのです。その経験は貴重なものですから、当然のことですが今でも中国とビジネスを行っています。
僕は1988年に初めて中国を訪れましたが、そのとき上海駅前には大きな建築物はなく生活感漂う家屋が建ち並び、埃まみれの道路が通っているだけでした。多くの人の交通手段は自転車で自動車は少なかったことを覚えています。1988年の時点でそんな光景だったので「果たして世界が言っているように、この国が発展することはあるのだろうか。アメリカでさえ凌駕しようとしている日本なので、この国の黄金時代はずっと続くのではないだろうか」と思ったものです。その後、わが国はバブル経済が崩壊し、現在、経済力、国力で逆転されているのは、ここで触れるまでもありません。
さて、そんな彼が初めて台湾に赴任したとき、映画館に行ったところ「全く聞き取れなかった」と言います。大学で習った中国語とは違う生きた語学に接して「これでは通用しない」と台湾で勉強を続けて現在に至っているのです。同級生のこの時代を先読みした先見性と頑張りを尊敬しています。
そんな彼も60歳を迎えたことから今年に入って故郷に帰ってきました。仕事は続けていますが「リモートの時代なので仕事も中国や台湾との交渉も和歌山市の自宅でできるので便利な時代になりました。ビジネスの拠点となる東京には月に一度行っていますが、その程度で良いのでアジアは近くなっています」と話してくれました。
和歌山市にいながらアジアと仕事ができる時代になっていることをビジネスの最前線にいる彼から聞くと、和歌山県がアジアのゲートウェイとなり発展に向かう可能性を感じました。
カットの予約をしていたことから三人の同級生が集まったので、暫く、かつてに戻って和むような時間を過ごすことができました。16歳の僕たちが、まさか60歳になって父親のあとを継いでカットの仕事をしている同級生のお店に行くことになり、そこで会うことになるとは予想もできないことでした。60年も生きてきたことでこんな現実に出会えました。「年月が経つことは経験を積んでいること、そして自分でも予想もしていない人生の足跡を話せるので案外面白いものだ。あの頃のこと、まだまだこれからのことも話せることは嬉しいことだ」と思いました。
時代は巡りますが、そこには変わらぬものもあれば変わっているものもあります。それを享受できるのは生きているからであり、今このときに感謝したくなります。