南海電鉄和歌山市駅近くに「勝海舟寓居地」の碑が建てられています。この碑には「勝海舟寓居地 昭和15年10月1日建立」と記されています。そして「文久3年軍艦奉行勝安房守紀州藩海岸防衛工事監督のため幕府より和歌山に派遣せられし時此処に寓居す 時に門下坂本龍馬も亦来りて事に従ふ」と記されています。
説明によると、文久3年(1863年)軍艦奉行であった勝海舟は、幕府より紀州の海岸防衛の工事監督を任じられ和歌山を訪れたそうです。日本は長年の鎖国から開国へと体制が変わり、外国船が来航するなか、海に面した紀州は砲台を築き防衛を強化する必要性があったのです。勝海舟は数日間この地に仮住まいをし、その任に当たったのです。
さらに詳しいことを調べると「勝海舟寓居地碑の口コミ(2015年11月18日)」投稿に以下の内容が記されていました。
幕末の安政元年、ロシアの使節プチャーチンが和親通商条約締結を渋る徳川幕府に圧力をかける目的で黒船ディアナ号を大阪湾に侵入させ、天保山の沖合に停泊しました。この時には示威行動のみに終わったものの、異国船がたやすく大阪湾に侵入したことに脅威を感じた幕府は、大阪防衛のために淡路島と友ヶ島に台場(砲台)を築造するよう命じます。しかしながら、当時の日本には海上の艦船を攻撃するための砲台の築造に関するノウハウが無かったため工事は難航し、工事が完了するのは文久3年になってからのことでした。
勝海舟は、当時、幕府の軍艦奉行であったことから、海岸砲台検分のため紀州藩を訪れました。その際に滞在した場所が橋丁の清水平右衛門宅であると伝えられており、これが現在「勝海舟寓居地」の石碑のある場所なのです。
このとき、勝海舟は加太から和歌浦にかけて海岸沿いの30数か所を検分しました。その際の報告書によれば、やっと完成した加太の台場に対して「その位置を失い、多くは児戯に類して歎息に堪えず」と厳しい評価をしており、あまりに貧弱なことを嘆いています。それと同時に、加太浦を軍艦の建造地の候補にあげ、実現の際にはそこに浦賀奉行に準ずる「加太奉行」を設置すべしと主張したと言われています。
この構想は、明治時代になって「由良要塞」として加太や友ヶ島に大規模な砲台が建設されることにより実現することになります。
との記載です。
また「城下町和歌山夜ばなし」(三尾功著)によると、坂本龍馬が勝海舟と共に視察で和歌山を訪れた際、滞在した宿の風呂を壊したエピソードを紹介しています。
また勝海舟が4日間、清水平右衛門の豪邸に宿泊したのですが、そのときのことを「勝海舟先生と坂本龍馬の事ども」に書き残しているそうです。
坂本さんは丈も高く筋骨も逞しく、先生の供をして海岸へ行くときは近藤さんと交代で先生の刀持ちをして馬廻りを離れずに歩き、駆け、帰ってからは畳の上に大の字になって吐息を「うっ」と吐かれるのをたびたび見ました。
ある日、先生の供をして和歌浦から帰ってきた坂本さんは、疲労のあまり無言で座敷に倒れていましたが、先生が湯殿から出るのを見るやいなや、裸になって風呂に入ったところ、「ピチピチバチン、ドスン、ザザー」という凄まじい音が響いたと同時に、「あっ、しまった!」と声がしました。
皆で見に行くと、風呂桶の輪がはじけ、底が抜け、湯が流れ出るという大騒動。坂本さん当人は濡れ仏のように板の間に突っ立っているという体たらくに、皆は抱腹絶倒。この出来事を「坂本さんの湯殿の滑稽演劇」と名付けて言い伝え、来訪の客人に話しております。
勝海舟寓居地の跡を訪ねて、江戸時代のエピソードを読んでみると「今から約150年に勝海舟と坂本龍馬の二人はどんな会話を交わしたのだろうか」と思いました。石碑だけですが、歴史の跡を訪ねる楽しみは予習と復習にあると思いました。