横浜市から和歌山県に来てくれた皆さんを白浜町にある太刀ヶ谷神社に案内しました。神武天皇の東征による紀州での足跡を説明し、熊野に向かう途中に白浜に立ち寄ったことを話しました。立ち寄った先に太刀ヶ谷神社があることを話したところ「案内してください」となったため、現地に向かったのです。太刀ヶ谷神社の存在を地元では長く口外しないでいました。理由は神武天皇が熊野に向かうために出立するとき、地元の皆さんは今から向かう敵に気づかれないように静かに戦の勝利を祈願して見送ったからです。参考ですが、出立の日が旧暦の8月1日、現在の9月1日ですが、この日のお祀りも厳かに開催されています。
地元で伝わる歴史は次のようなことです。今から2681年前神武天皇の一行が紀伊半島を南下しているときに台風に遭遇したため、田辺湾の奥深い場所にある太刀ヶ谷湾に避難しました。この湾は綱いらずの湾と言われるほど波が静かなので、一行はこの地で待機することになりました。しかし3日間滞在しても沖の時化が静まらないため、神武天皇は腰の太刀を海に投げ入れました。そうしたところ時化が治まったことから、海路、熊野に向かうことになったのです。
そのとき、地元の村人がその太刀を戴いて祠をつくり村の守り神としたのです。それが今につながる太刀ヶ谷神社なのです。神武天皇が熊野に向かって出立したことから口外することなく、静かに祀ってきたという歴史があるのです。
そのため和歌山県内でも知られることなく現代に至っています。但し、太刀ヶ谷神社をお祀りする地元の家屋は19軒に減少していること、高齢化していることから、引き継がないことには歴史が途絶えてしまうことが心配であり、最近はこの神社の存在と由来を伝えるようになってきています。
日本書紀によると神武天皇一行は、現在の和歌山市から御坊市、そして那智勝浦町へと海路で進行しています。途中、田辺湾に立ち寄ったことを含めて空白の時間となっているのです。その時間を埋めてくれるのが太刀ヶ谷神社です。御坊市から田辺湾に立ち寄り、ここから那智勝浦町に向かうことで時間設定ができるのです。
しかも地元では天皇家の伝統的な儀式である「へっついさん」という新米を収穫してお祀りするしきたりも、太刀ヶ谷神社のお祀りの一部として残っているのです。書物によらないところ地元で伝わってきた、所謂、口伝による物語が証拠になるものです。言い伝えで引き継がれている地元の歴史は「そこに語り継がれるような何かがあった」と推測するのが普通だと思います。しかも東征のとき、その時代は共通の文字のない時代ですから、口伝により伝えられてきたと思うのです。
大阪から和歌山市を通り、紀伊半島を南下して那智勝浦町、そして新宮市から熊野に向かう行程において、地元で伝わる物語があるので、それが書物で記された歴史のすき間を埋める証拠だと思います。
地元でこの神社を護っている方は「最近、大阪の神社などから訪ねてくることが多くなっています」と話してくれましたが、紀州での神武天皇の足跡は日本の歴史を解釈するうえで大事なものだと思っています。
横浜市から来てくれた方は「白浜町に来て良かった。太刀ヶ谷神社の存在は知りませんでした」と話してくれたように、和歌山県の歴史と奥深さを感じてくれたものだと思います。
太刀ヶ谷神社を案内した後、村人が祠をつくり守り神とした場所、地元で元宮と呼ばれている場所も訪ねました。この場所は、太刀ヶ谷湾から崎の湯に向かう街道だったそうですから、口伝で伝えられている歴史と合致しています。地元ではこの場所を「元宮さん」として敬愛し、太刀ヶ谷神社とともに奉仕が続けられているのです。
地元で伝わる古い歴史の中には近年からの歴史も含まれています。つまり明治から大正、昭和へと引き継がれてきた歴史も口伝に含まれているのです。これを否定することは生きた人達の地元愛や思い、行動までも否定することになります。後世の私達が、先人達の尊い行為を否定するような愚行をすることは許されません。先人たちの物語と思いを正しく伝えることが、現代を生きる私達の役割です。皆さんを案内しながらそんなことを考えました。
故郷に伝わる歴史を大切にしたいものです。
- 和歌山県飲食業組合と「まん延防止等重点措置」のお願いに関して協議を行いました。また飲食店経営者の皆さんと現状を話し合っています。
- 陽性反応が出て自宅待機の方から電話をいただきました。無症状だそうで「どこで感染したのか分からない」ということです。市中感染ですから気をつけたいと思います。
- 医療的ケア児のことに関して話し合いました。継続した支援を行いたいと考えています。