活動報告・レポート
2021年11月27日(土)
理事研修会二日目
理事研修会二日目

昨日から実施している社会福祉法人の理事研修会二日目です。本日は歴史に学ぶことを目的として、京都市内の寺社仏閣を巡りました。

その中の世界文化遺産である龍安寺の解説に感動しました。このお寺には石庭という枯山水の代表的なお庭があります。不必要なものを究極まで取り除いた石庭は、まさに日本的な「静かな芸術」です。室町末期である西暦1500年頃に造られたお庭だそうですが、作者が謎をかけているようなお庭になっています。

お庭には白砂が敷き詰められていて、そこに15個の石が置かれています。仏教界で15とは最高を表す数字だそうなので、この石庭の15個の石は最高の状態を表していることになります。

しかしどの角度から見ても15個の全ての石を見ることができないのです。見方にもよりますが13個または14個の石が見えるだけです。つまりお庭で表現されている最高の状態を見ることが出来ないのです。

この解釈が凄いのです。

ひとつは「仏教界で15は最高を示す数字です。人はその状態を目指すのですが最高の状態、つまり人としての完成形に辿り着くことは簡単なことではありません。石庭の教えの一つは、人は完成形を目指していますがそこに近づくことは容易ではないことを示してくれています」という解釈です。

理事研修会二日目

もうひとつは「人は15のことを達成してしまうとそれが完成してしまいます。完成してしまうと後は形が崩れていくことになります。十五夜お月さんという例えがありますが、これは満月の状態を表しています。まん丸いお月さんを十五夜と呼ぶのです。しかし満月の状態を表す言葉に『満ちたら欠ける』というものがあります。そう、満ちた状態のものはその次の瞬間に崩れていくことになります。完成したと思ったら、その次の瞬間に完成したものが崩れていくのです。

石庭の意味は完成するために取り組むべきですが、常に完成を目指さなければ満足した瞬間から形は崩れていくことを教えてくれています」ということになります。

「満ちたら欠ける」のはお月さんだけではなく、世の中の全てに共通する原則なのです。人の世のことは完成した途端に崩れるものなので、完成したという満足感を味わってしまうとそれからは欠けていくばかりです。そんな過信にならないことを教えてくれているのが石庭だとも言えます。

理事の一人が「そういえば父親から小さい頃に『十五夜に団子を15個お供えしてはいけない。13個か14個にしておきなさい』と教えられました。私の家ではいまでも十五夜には14個のお団子をお供えしていますが、もしかするとこの石庭の教えと共通しているかもしれません」と話がありました。事業は「満ちたら欠ける」ので常に求めなければなりません。石庭の作者の意図は「決して満足しないように」と教えてくれているように思います。

理事研修会二日目

参考までに龍安寺は応仁の乱の主役の一人である細川勝元氏の別荘だったものです。歴史で習った舞台になったお寺で長い歴史を感じることができました。

もうひとつの見所が「つくばい」と「侘助椿」です。これは水戸光圀公が寄贈したものと伝えられています。ここに書かれている言葉は「吾唯足知(われ ただ たるをしる)」です。

この言葉の意味は「満ち足りていることを知っている」です。つまり「足ることを知る人は不平不満がなく、心豊かであることができる」ことを伝える言葉だそうです。水戸光圀公が「大日本史」を編纂する時に細川家から資料を借りたお礼に、この「つくばい」と「侘助椿」を贈呈したとされているので、当時の両者で知識のやりとりがあったように思います。

龍安寺で素晴らしい教えをいただきました。このような案内をしてもらって研修会の二日目を終え和歌山市に戻りました。12月には今年最終の理事会を開催する予定です。皆さんに感謝しています。ありがとうございます。