活動報告・レポート
2021年8月25日(水)
勝海舟と坂本龍馬
勝海舟と坂本龍馬
勝海舟と坂本龍馬

令和3年8月21日に開催した「和歌山県誕生150年、和歌山市政130年、陸奥宗光先生乃像建立50周年」について懇談しました。実行委員会運営者の視点から、そして紀州と幕末に関する意見交換を行いました。

宇都外務副大臣の講演から外交の重要性とあるべき姿を理解することが出来ましたし、陸奥宗光伯の志が外務省に生き続けていることも分かりました。この記念講演会と記念式典を通じて外務省にある陸奥宗光伯の洋装の銅像は「この国を護った外交を永久に忘れずに後に続く者たちの外交の規範とする」ためであり、岡公園の和服姿の銅像は「故郷の偉人の功績と志を継承することを望んで建立された」ものだと理解しました。

そして「何故、岡公園の銅像は右によって建立されているのだろう」と銅像の前で話したことを思い出しました。

それは「右方向を見ているのは進行方向であり、思い描いた志は身体が失われても続いているものでもあり、その志は故郷の人達が受け継いで一緒に進んでいくことを期待してのもの。そして視点も進行方向を指しているのは、常に大局を見失うことなく将来を見据えることが大事だと教えている」ものだと感じています。

また陸奥宗光伯は坂本龍馬と強い師弟の交わりがありました。その坂本龍馬の師は勝海舟であることは周知のことです。勝海舟が紀州藩を訪れたことから「龍馬も紀州に来ていた」と伝えられています。手紙や史料は残っていないので和歌山市内での言い伝えですが「紀州を訪れていた」と思っています。勝海舟が紀州を訪れた理由は次のことからです。

安政元年、ロシア使節のプチャーチンは和親通商条約を締結させるため徳川幕府に圧力をかけました。それが黒船ディアナ号を大阪湾に入港させたことです。幕府はロシアの黒船が簡単に大阪湾に侵入したことから、大阪防衛のために淡路島と友ヶ島に砲台を設置することを考えました。

そのため軍艦奉行の勝海舟は海岸砲台検分のため紀州藩を訪れたのです。その滞在した場所が和歌山市橋丁の清水平右衛門宅だったことから、ここに「勝海舟寓居地」の石碑が設けられています。勝海舟は紀州に滞在した4日間で、加太から和歌浦にかけての海岸沿いを検分したようです。この時、坂本龍馬も遅れて紀州藩を訪れ、勝海舟とともに海防施設の巡視に参加した。

と伝えられているのです。

この紀州入りの歴史の真偽は検証する手段はありませんが、師の勝海舟がロシアの黒船が来たことから防衛のために師が紀州に行ったのであれば、龍馬は同行していたとおもっています。勝海舟の安全とロシアの脅威から国を護るために、行動力のある龍馬であれば現場を訪れたと思うのです。記録が残っていないことはとても残念なのですが、龍馬が紀州に来ていた歴史も陸奥宗光伯を語る時に伝えたいと話し合いました。歴史は固まったものではなく生きものなので、志を伝える立場でいるとすれば「偉人達の志を持った行動は伝えたい」と思います。

紀州に勝海舟、坂本龍馬が訪れていたと話し合っただけでワクワクしてきました。偉人の行動と志を感じられるなら、歴史は生きた教材となって私達に物語として入ってきます。

記念事業をもとに懇談したことで話は展開していきました。感染症拡大で事業が延期されていく中、和歌山県誕生150年、和歌山市政130年そして陸奥宗光先生乃像建立50周年をお祝いし、故郷に誇りを持てた機会を嬉しく思っています。

その他
  • ビジネスジェットに関する会議を行いました。感染症拡大とビジネスのグローバル化進展のため、世界はビジネスジェットの利用へと進んでいます。もうプライベートではなくビジネスへと飛行機が便利に使えるように進化しているのです。地勢、そして空と海の両面から言えることは、アジアの玄関口は九州であり和歌山県です。APECからすると本州の玄関口は和歌山県なので、地の利を生かした県政を進めることを考えています。
  • 企業が求める人材養成のための教育訓練について話し合いました。ビジネスの世界では、技術力とコミュニケーション力を高める教育訓練を実施できる教育機関が求められています。企業進出、人材育成、仕事のトータルソリューションは企業に来てもらうための基本ですから、和歌山県として準備を整えたい施策です。しくみを整えていくことを考えています。