「陸奥宗光伯と和歌山名刹三社参り」を開催しました。昨日から「全国龍馬社中近畿北陸ブロック大会」のため役員の皆さんが和歌山市で宿泊してくれています。昨日は交流会でお迎えをして解散したところですが、今朝は和歌山市にある名刹三社を巡る行程としました。
貴志川線に乗車していただき、最初は日前宮、続いて伊太祁曽神社、最後に竈山神社を巡ってもらいました。移動は貴志川線で伊太祁曽駅には三代目の「よんたま駅長」がいたので参加者の皆さん大喜びでした。駅の改札を出たところで駅員さんが「私達の駅長を紹介します」と言ったので名刺を持って挨拶しようとした人が「猫駅長ですね」と話していたように、貴志川線のたま駅長のことは知られていました。
伊太祁曽神社ではかつて、日前宮と竈山神社は官幣大社で、伊太祁曽神社は官幣中社でした。近くに格式の高い神社が三社あったことは珍しく、この名刹三社を巡るために貴志川線を走らせたと言われています。余談ですが当時、全国に約10万の神社があり、官幣社に指定されたのはわずか220社だったようです。
確かに乗車すると身軽に名刹三社を巡ることができました。近くにあると名所を見逃してしまうことは珍しくありませんが、この三社も私達にとって良いところを見逃しているように感じました。その由来、格式、そして神社内でのお話しは歴史を学べるものであり、「記紀」で伝えられている神社が和歌山市に存在していることを誇りに思います。
さて伊太祁曽神社では、陸奥宗光伯とのご縁を紹介してくれました。境内に外務省から寄贈された桜の木が植樹されていて、案内してもらうと成長している姿を見ることが出来ました。同神社は木の神様を祀っているため、陸奥宗光伯に由来した外務省の桜の木を植樹する地に相応しいと思います。龍馬会の皆さんもこの陸奥宗光伯に由来する桜の木を熱心に眺めていたほどです。
龍馬会の皆さんからすると陸奥宗光伯は坂本龍馬が可愛がっていた海援隊の弟子であり、新国家を引き継いでくれた人物なので、親しみを込めて話を聞いてくれました。
ところでご一緒した郷士坂本家十代の坂本匡弘さんは「龍馬の親が下級武士になったので初代であり、そこから数えて十代目になる」と説明してくれました。元々坂本家は高知市で5番に入る程の豊かな商売人だったそうです。そこから武士階級となりましたが、上級武士には逆らえることなく、子どもの龍馬も身分差別を受けていたようです。そこで子ども心に不条理さを感じた龍馬は、やがて自由な国を志向するようになっていくのです。
龍馬は家の近くの剣道場で剣術を習い頭角を現していったといいます。その時の木刀を保存しているのが高知県護国神社で、坂本匡弘さんもこの木刀を握ったことがあると説明してくれました。握ってみると思っていたよりも長くて重い木刀で、龍馬を尊敬する人達は木刀を握って「涙を流している」ことも珍しくないと聞きました。
そんな話をしていると、伊太祁曽神社には龍に見える松の木があることを説明してくれました。
確かに頭が龍であり身体が馬のように見えてきます。龍と馬のような姿があり、その先に「陸奥宗光の桜」と記された外務省から寄贈された桜が植えられています。これも木の神様からのご縁だと思えます。
ところで坂本龍馬は京都、土佐、長崎、薩摩、福井など全国を巡っています。歩いて移動していたように思いますが、坂本匡弘さんの話では「実際は船で移動していたようです。瀬戸内海は海が静かなので安全に航行できましたし、長崎から福井への移動する時間を短縮しながら行けたようです」ということです。行動力と共に恐れずに先進技術を使う発想があったのです。また代々引き継がれているものの中には「勝海舟や西郷隆盛からの贈り物がある」ということです。勝海舟からの掛け軸には「亡くなって5年が経過しているが今でも想うことがある。今も馬に乗って駆けているのだろう」という主旨の詩が書かれていると聞きました。
やはり龍馬は勝海舟や西郷隆盛と深い交流があり、薩長同盟と大政奉還の立役者だったと思うのです。そうでなければ心を込めた言葉を綴った掛け軸などが届けられることはありません。
名刹を訪ねながら坂本匡弘さんと龍馬の話を交わすことが出来ました。龍馬会の皆さんと素晴らしい歴史の旅の時間を過ごせたことに感謝しています。