活動報告・レポート
2021年7月25日(日)
樺太記念館
樺太記念館 樺太記念館

稚内市にある記念館を訪ねました。ここは初めて訪れましたが、樺太の歴史と現在が分かり、また資料も揃えられている資料館です。

第二次大戦以前の樺太は、北緯50度がソ連の北樺太と日本の南樺太の国境となっていました。
南樺太が日本だったのは、日露戦争が終結した明治38年から第二次大戦を終えた昭和20年までの40年間です。その間の南樺太の歴史がよく分かるように展示されていますし、丁寧に説明してくれました。

明治時代、北緯50度の国境、数か所に日露国境標石が置かれていたようです。そのレプリカが展示されていますが、これを見ると南樺太は日本だったことが実感できます。話と共に物があることは迫力があり、それが歴史上の事実だったことが理解できます。

樺太記念館

現在は約50万人のロシアの方々が暮らしているため、現実的にはロシアの領土になっています。所謂、実効支配ですが、ここまで歴史が進展してしまうと、現実的には歴史を戻すことは難しいと感じます。話を聞いていると、樺太と海を挟んで隣接する稚内市にとっては繊細な問題だと思いました。ロシアとの友好を図る必要もありますし、歴史を伝える役割も担っていると思うからです。ロシアになった今も、樺太庁や当時の建築物は利用されているようで、展示されている写真を見ると、当時の日本の文化と生活の姿を偲ぶことができます。

ところで樺太にはパスポートが必要ですが行くことができるようです。但しコロナ禍のため現在の取り扱いは分かりません。

記念館からは「名横綱の大鵬さんは樺太で生まれています。また戦争後、南樺太はソ連に侵攻されたことで日本人は稚内市に引き揚げました。今の樺太、サハリンではロシアの人が暮らしているので、外交的にわが国の主張をすることは難しいことになっています。樺太の面積は北海道と同じぐらいで非常に大きな島なんです」と話してくれたように、稚内市と樺太のつながりの歴史をここで知ることが出来ます。

樺太記念館

北緯50度で覚えているのは、僕が小学生の時の社会の教科書です。北海道の北に樺太があり、左から右に一直線で国境が記されていたのです。当時のその教科書では南樺太は日本と書かれていました。しかし北海道までが日本だと認識していたので父親に尋ねた記憶があります。
「この島は日本なの」。父親は「ここは樺太といって日本の領土だったところだが、大戦でソ連に侵攻されてからソ連の領土になっている。僕が子どもの頃、樺太は日本だった」と教えてもらいました。小学生だった僕は南樺太の歴史も「氷雪の門」も知らなかったので、「そうなんだ」と思ったことが記憶にあります。現代日本が忘れている樺太との歴史と記憶を、稚内市では語り伝えようとしているように感じました。
帰ってから調べてみると、この施設は稚内市教育委員会教育部教育総務課が所管していることが分かりました。稚内市の教育委員会が、樺太と稚内市の歴史を伝えようとしている姿勢を称えたいと思います。

樺太記念館

稚内市の商店街にはロシア語の案内があるように樺太と最も近い市であり、歴史認識を持ちながら友好関係、交流をすべき地理関係にあります。稚内市の立ち位置は分かりませんが、展示館で説明を受け「歴史は続いているものなので一気に現在の姿は変えられませんが、歴史は語り継ぐべきもので、将来、歴史を学んだ子ども達が外交や国際社会の場で是非ともロシアと話をして欲しい。樺太記念館がある稚内市から、いつかロシアと平和裏に樺太や北方領土の問題を語り合える人が登場することを期待したい」と思いました。途絶えた歴史をもう一度蘇らせることは難しいとのことで、自国の歴史は語りつなげることが大事なことだと考えています。やはり現地を訪れることは学びの機会になります。

館内一階には昭和の稚内市の商店街の姿を再現した展示もあり、説明してくれた方の「当時は人が多くて賑わっていました」という言葉の通り街並みが浮かびました。

今日の研修会を終えた後、稚内空港から羽田空港を経由して関西空港、和歌山市へと戻りました。研修会に参加してくれた仲間達に感謝しています。