1.太陽信仰と八咫烏
秦の始皇帝の時代。日本は弥生時代でした。始皇帝は徐福に命じて「不老不死」の薬を見付けてくるように命令しました。当時の始皇帝は暴君であり、秦を離れたいと思っていた部下は徐福と共に東方の国に行くことを志望し、約3,000人が日本に向けて旅立ったのです。当時の船は一隻当たり50人ぐらいが定員だったようなので、約60隻の船が秦から日本へと向かうことになったのです。その船の船首に八咫烏が飾られていたということです。
熊野に到着した徐福は上陸しますが、熊野の人が八咫烏を見て守り神として祀ったと言われています。八咫烏は神の使いとされていますが、それは太陽信仰から来ていると説明してくれました。日という元々の文字は「口」の中に点を付した漢字でした。この口は太陽であり、点は黒点を表しています。太陽の中にある黒点こそ八咫烏だったのです。
瞳を閉じると、八咫烏という縁起の良い神の使いが熊野にやってきたと歓迎した姿が想像できます。そこから八咫烏は熊野の守り神になったと思います。
ところで徐福は秦を出発にするにあたって、船に東方で不老不死の薬を探す期間の生活に必要な荷物を積み込みました。麦、薬、農耕機械などです。弥生時代の日本は、現代よりも気温が高かったと言われています。わが国は麦の栽培に適していたので、農耕機械によって麦栽培が始まりました。薬の服用が始まったのも弥生時代だとされています。
神武天皇東征において紀州熊野に入った一行は八咫烏に導かれて大和に進行してこの国を創ったのです。八咫烏に関しては諸説がありますが、当時、熊野地方で勢力をもっていた熊野三党と呼ばれる榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏を表しているとの説があります。地元豪族が神武天皇の国づくりの志に共感して支援したことになるのでしょうか。
リーダーの志と熱意、行動によって人は共感して応援してくれます。協力してもらうためには言葉から伝わる熱意、相手に伝わるような熱量が必要です。「豊かで住みよい国を築きたい」という神武天皇の熱量のある言葉の力によって、熊野の豪族は動かされたと思うのです。太陽信仰に熱意がないはずはありません。
2.リーダーの姿勢
時代は進み天平15年、西暦743年、聖武天皇の時代に九州で発生した疫病は都にまで被害が及んできました。そして全国にこの疫病が流行していったのです。それが長く人類が苦しめられてきた天然痘です。
当時の人口の三分の一近い約100万人から150万人以上の国民を死に追いやった病を鎮めるために、聖武天皇は都に大仏を建立しご祈祷を捧げます。わが国で疫病と戦った最初の天皇が聖武天皇だったとされています。当時、祈りの力は強く信じられていたようで、医療とは祈りであり祈りの力によって治癒されると信じられていたようです。
参考までに、日本での疫病は海外から持ち込まれることが多いとされています。この時代の天然痘は朝鮮半島の新羅に派遣した使節を通じて入ってきたと言われることもあります。
疫病対策として必要な国家予算を投入すること。リーダーが先頭に立ち戦う姿勢を示すことがウイルスとの戦いで必要なことだという教訓です。
ただ奈良文化財研究所の報告によると、祈りだけで疫病を抑えようとしていたのではない報告がされています。ここで参考にしたのは「平城京の疫病対策―医療・まじない・祈り―」都城発掘調査部考古第二研究室長の神野恵氏から引用します。
「聖武天皇は税の免除をおこない、たびたび食料や薬湯などを支給した。この未曾有の災異に、中央政府は国を揚げて医療の提供、食料の支給、税の免除に取り組み、疫民の救済にあたった」と政策を講じていたようです。
疫病対策は国のリーダーがやるべき施策の企画と実行、そのための予算措置こそが、最も大事であることを教えてくれているように思います。