和歌山市にある「道路元標記念碑」を始め付近の歴史の跡を案内してもらいました。和歌山市に暮らしていながら、歴史の跡を知らないことが多くあります。この「道路元標記念碑」もその一つで、和歌山市本町一丁目1番地にあるものです。
江戸時代、京橋は和歌山城の表玄関で南の袂には城内三の丸に通じ、北詰からは本町通りを経て諸国へと街道が通じていました。このため和歌山城から「何里」という表現は全て京橋北詰からの里程だったのです。この橋が架かっている市堀川は江戸時代には和歌山城の外堀であった場所であり、京橋は城内と城外の境界でもあったのです。
つまり江戸などから紀州を目指す人達はこの地点を目指したものであり、紀州から江戸などに向かう人達は、この地点から最初の一歩を踏み出していたのです。紀州、和歌山城を中心とした街の起点となった場所が、この本町一丁目1番地なのです。
例えば参勤交代もこの地点から始まっていますし、江戸から紀州に帰ってきた行列も、この地点が最終地点だったのです。江戸時代の故郷の原点ともいえる場所が「道路元標記念碑」ですが、現在は訪れる人も少なく、工事中の立看板でこの「記念碑」が遮られていました。氣にする人もいないことを残念に思いますし、故郷の原景を大事にしていない気持ちの表れだと感じました。
紀州から旅立つ人達は、この場所に立って、これから行く江戸の町を想ったことでしょうし、故郷に帰ってきた人達は、この場所に辿り着くと安堵したように思います。
そしてこの地点が、大和街道の起点であり終点になっていたのです。当時の絵画を見ると行き交う人も多かったことが分かる描写がありますし、この交通の要所は商売人の町であったことも伺い知れます。
ところでこの「道路元標記念碑」のある地点は、京橋プロムナードとして整備されており「からくり時計」が設置されています。この「からくり時計」は籠の形をした珍しいものであり、仕掛けが動く時には、紀州が舞台の童謡「鞠と殿様」のメロディが流れる仕掛けになっているようです。仕掛けが始まると思われる定刻を待ちましたが「からくり時計」が動かなかったので残念に思いました。和歌山市を訪ねてくれる県外のお客さんを和歌山城やその周辺を散策してまちなか案内する時に、故郷の原景である「道路元標記念碑」を再び訪れて説明したいと考えています。
県内のスポーツチームが県庁を訪ねてくれました。シーズンが始まる前のこの時期に挨拶のため訪れてくれたもので、リーグ優勝を目指して戦ってくれることを期待しています。また地域貢献活動をしたいと要望をいただいていたので、白浜町の太刀ケ谷神社のお祀りに参加してくれることを依頼しました。選手の皆さんがお祀りをお手伝いしてくれることは歓迎すべきことであり、伝統行事が引き継がれることが期待できます。
先週、地域のことを考えて活動している方から「和歌山県の将来のあり方について教えて欲しい」と要望があったので、僕が活動している事業を中心に説明しました。和歌山市だけではなく県内をつなぐ構想を伝えたところ「和歌山県の将来が明るいものになります。何としても実現してください。議員さんが将来構想を持って取り組んでくれていることは有り難いことだと思います。こんな議員が増えてくれると和歌山県は変わると思います」と話してくれました。
そして
僕は彼方此方で「議員は誰でも同じだ」とか「議員にできることは限られているから」などの話を聞くことがありますが、その時は「絶対に違います」と答えています。
「何もしない議員ばかりだったらどうなると思いますか。できるかできないか分からないけれど、将来のことを考えて企画したことを実現するために動いてくれる議員がある方が素晴らしいじゃないですか。もし、やってもやらないでも同じだと考えている議員がいる。自ら動かない議員が多いようなら、和歌山県は良くなりませんし、そんな県は衰退しますから」と話しています。
と伝えてくれました。
説明を聞く姿勢も、説明化を終えた後の感想も熱意を感じるもので、熱意が人を動かして県を変えていく原動力になります。