太田城に関しては「太田城史跡顕彰保存会」が、その歴史を継承しようとして活動を続けています。同会では太田城に関する冊子をまとめているなど「この場所に太田城があり、豊臣秀吉の水攻めによって明け渡した」歴史を今に伝えています。
これまでも太田城に関しては都度取り上げてきましたが、このほど、和歌山市が太田城に関して発掘調査の結果を公表していることを教えてくれました。地元にとって歓迎すべきことなので以下に紹介します。
和歌山市は和歌山市出水に残る堤状の土盛りを発掘調査した結果の公表をしています。位置や構築時期から1585年、豊臣秀吉が太田城を水攻めした際に築いた堤防である可能性が高いということです。
太田城は現在のJR和歌山駅東口付近にあったとされており、豊臣秀吉に追われた雑賀衆の残党らが立てこもったとされる。秀吉は城の周囲に短期間で長大な堤防を築き、灌漑用水を引き込んで水攻めにしたという記録が残されています。
豊臣秀吉が毛利氏と戦った際の岡山県の備中高松城、後北条氏を攻めた際の埼玉県の忍城とともに「日本三大水攻め」の一つとされているのです。
調査地点は太田城があったとされる場所から北東に約500メートルの地点で、現在は2カ所に土盛りが残っているところです。堤防跡ではないかとされてきたが、本格的な調査はされていませんでした。
令和2年2月から3月にかけて、2カ所のうち南側の1カ所、ここは幅約24メートル、長さ約66メートル、高さ約2.6メートルが残存している箇所ですが、今回、初めて発掘調査したところ、土盛りの中からは中世の土器や鉄砲玉が出土しています。また土盛りの下部には中世の耕作地跡があり、上面には江戸時代のごみを捨てる穴が掘られていたことから、中世末から江戸時代に築かれた大規模構造物であると判断されているようです。
堤は基礎となる小山を造り、基底部を地ならしし、土を盛って最後に堤の両端を覆うという4工程で造られていたことも判明しています。
和歌山市文化振興課は「江戸時代初め、浅野氏が和歌山城三の丸を築いた際の土塁の工法と同じで、中世末から近世初めの土木技術を知る上で興味深い共通点があります」と指摘しているようです。
毎日新聞によると、和歌山城郭調査研究会の白石博則代表は「これまで根拠があいまいだったが、水攻めの堤防である可能性が高まった。太田城の攻防は紀州の中世と近世の転換点。秀吉軍の堤を築いた工法が判明したことは重要だ」と話しているものです。
太田城の水攻めに関しては地元の研究家が調査してきたところですが、今回の和歌山市の調査が史実であった可能性が高まったということです。地元の皆さんも、地元におけるこれまで文献調査など結果を続けてきたので、この調査結果を喜んでくれていると思います。
僕は地元の故Oさんから、文献調査した結果の冊子をいただき説明を聞かせてもらっています。熱い思いで伝えてくれたOさんのことを忘れてはいません。当時、その熱意を受けて、文教委員会で太田城跡地の視察に行ったほどです。和歌山市に対して調査の訴えを起こしてから長い年月を経て、ようやく史実として認められようという動きがありました。その時のメンバーだったOさんもY連合自治会長もこの世に存在していないことが残念ですが、Oさん達は、今回の発表を向こうの世界で喜んでくれていると思います。
有志のメンバーによる学習会に参加しました。昨年度も学習会を行ったので、二度目となりますが、熱心な学びの機会となりました。昨年度は、代表者が学習会終了後にレポート8枚でまとめて成果を報告してくれましたが、今年も来月、報告会を行う予定です。学んだことは報告することで成果が高まります。
また皆さんとの大切な交流機会となりました。後に続く大切な機会を設けてくれたことに感謝しています。