新宮高校を訪ねました。新宮市でも生徒数が減少していて、現在各学年とも5クラスです。最盛期は12クラスあったようなので、生徒が減少していることは顕著です。しかし校訓として「質実剛健」、校是として「文武両道」を目指している学校の歴史は変わることなく、多くの卒業生を送り出し続けています。
開校は明治34年で119年の伝統校で、令和3年に120周年を迎えることになっています。戦前は最高学府の意味込めて「熊野大学」とも呼ばれていたように、地域の誇りになっている高校です。
現在の教育目標は次の三つです。
- 知・徳・体バランスがとれた人間形成。
- 地域社会に積極的に貢献し、次世代の日本社会や国際社会で活躍できるリーダーの育成。
- よき伝統の継承と新しい伝統の創造。
そのために授業時間を45分に縮めて7限授業としています。これは時間を短くして2限を増やしていることになり、地歴と公民、理科の授業時間を確保することにつなげています。毎日の国語、英語、数学の学習と共に自ら能力を鍛えるようにしているのです。
ただ「きのくに教育審議会」から和歌山県教育委員会への答申では「高校の運営には6クラスから9クラスが望ましい」とあるので、地域としてどのように再編していくのかが課題となりそうです。
新宮市にある神倉神社に登りました。登るのには相当きつい石の階段でしたが、山頂の「ごとびき岩」と神社にお参りすることができました。「ごとびき岩」とは、神武天皇が東征の折、この岩に鎮座し、太陽の光で元気を取り戻した場所と伝えられています。
山頂に到着すると膝が緩くなり、汗が溢れ出るほどでしたが、気持ちよく参拝することができました。これはまさに、困難を乗り越えた後に喜びが訪れるような感覚です。
この神倉神社について「わかやま記紀の旅」では次のように紹介されています。
「日本書紀」で神武天皇が熊野に到着後に登られたという天磐盾(アメノイワタテ)は、神倉神社のある神倉山であると伝えられている。なお、当社は、熊野速玉大社の飛地境内に鎮座する摂社である。
鎌倉時代に源頼朝が寄進したと伝えられる538段の急な石段を登りつめるとあらわれるのが、社殿とご神体のゴトビキ岩。熊野三山の神々が最初に御降臨されたと言われる巨大岩である。
石段登り口の手前には、神武天皇を顕彰する碑が立てられている。
というものです。
続いて阿須賀神社を参拝しました。神武天皇は熊野市神邑に到着したと伝えられていますが、神邑とは現在の阿須賀神社のある場所だとされています。
阿須賀神社について「わかやま記紀の旅」では次のように紹介されています。
男水門で兄・彦五瀬命が崩御された後、さらに二人の兄神を失いながらも、神武天皇一行は熊野へと上陸された。「記紀」に記されている熊野村、熊野神邑は当社の鎮座する地域であると伝えられ、参道の脇には熊野神邑を顕彰する碑が立てられている。
その後、荒坂津神社に参拝しました。ここは高倉下が神武天皇へ剣を賜り、覚醒して丹敷戸畔を誅した場所だと伝えられています。
そして神武天皇が海路でこの地を訪れたと伝えられている当時の狭野、現在の佐野にある「神武天皇聖蹟狭野顕彰碑」を訪ねました。言い伝えによると、神武天皇は狭野を越えて三輪崎に付近に到着したと言われていることから、その地点に顕彰碑が建立されているのです。
この神武天皇聖蹟狭野顕彰碑について「わかやま記紀の旅」では次のように紹介されています。
男水門で兄・彦五瀬命が崩御された後、さらに二人の兄神を失いながらも、神武天皇一行は熊野へと到着された。「日本書紀」には、「狭野(サノ)」を越えて熊野に到着されたと記されており、これが現在の新宮市佐野のことを指しているのではないかと伝えられている。
当碑は熊野古道・佐野王子跡の石碑近くにあり、周辺には尼将軍の供養碑などもある。
そして那智勝浦町浜ノ宮の赤色海岸は、赤色の浜と言われていますが、これは神武天皇が丹敷戸畔(にしきとべ)と壮絶な戦いを行い、海が血に染まった海岸と伝えられていることから、そう呼ばれています。
わが国の歴史の起源を訪ねることができる和歌山県の歴史は素晴らしいと感じました。わが国の起源を朝、車で出発して短時間のうちに訪ねることができる県は、宮崎県と奈良県、そして和歌山県だけで、その他にないからです。
ところがこの歴史は、和歌山県内でもあまり知られていないことが残念です。僕も習ったことがなく大人になって知ったことです。そんな大人が多いのではないでしょうか。
今回「わかやま記紀の旅」のパンフレットが発刊されたことから、その場所を訪ねる機会に恵まれました。和歌山県の歴史を観光に生かす取り組みを和歌山県の皆さんから始め、関西、そして全国に展開していくことを期待しています。訪ねることで空気を感じることができますから、多くの人に訪れてもらいたいと思います。
ただ全ての足跡が「わかやま記紀の旅」に掲載されているものではないので、次の発刊する時は改訂版として発刊して欲しいところです。
那智勝浦観光協会を発展的に解消して那智勝浦観光機構が設立されています。目指すところは、次の三点です。
- 未来志向の観光により「稼いで潤す」観光地域づくりを目指すこと。
- 豊富な資源を活用し、持続可能な開発目標意識して取り組むこと。
- 世界の旅行者が求める、心身の充足感を満たす観光地を整備すること。
これらによって観光を軸、稼げる産業として、那智勝浦町を築くことを目指しています。
これらの姿勢から、待ちの姿勢の観光ではなく、攻める姿勢の観光への転換を図っているように感じました。その証拠に令和2年4月から6月までの観光客は、対前年比95パーセントマイナスでしたが、7月と8月で前年並みに観光客を取り戻しています。客室利用率は約80パーセントのようなので、観光地としての機能を取り戻していることを聞きました。
ある県の場合、観光地のホテルの宿泊者数は対前年比、約50パーセントで苦戦していると聞きました。そのこともあり「わかやまリフレッシュプラン」は良い政策であると評価する裏付けになっているのです。
これは和歌山県の施策である「わかやまリフレッシュプランが相当効いている」と説明してくれました。「これは良い政策です」と話してくれたように、和歌山県民が和歌山県の観光地を知ることが、如何に大事であるかを思い知らされることになりました。故郷の良いところを知ることが県民としての誇りにつながりますから、この機会に県内を訪れて欲しいと思います。
また中学校の修学旅行を、新型コロナウイルス感染症対策として県内に切り替えたことも効果が出ています。令和元年の修学旅行の受け入れは10件だったものが令和2年は109件の予約へと大きく増加しています。これは県内中学校が、那智勝浦町を修学旅行実施先として予定しているためです。那智勝浦町としては「この機会を大事にして、来年以降も那智勝浦を修学旅行先として選択してもらえるように、体験学習など工夫したい」と話してくれました。これも積極性の現れだと思います。
懇談会には堀那智勝浦町長も出席していただき、とても有益な時間となりましたこと感謝しています。