冊子「桃山町の原像」をいただきました。第一章に「ふるさとの地名起源」の項があり、そこでは「古事記」と「日本書紀」に地名の起源を表している記述があることが記されています。
「古事記」の中つ巻、崇神天皇の条の記述です。
「この天皇、木国造、名は荒河刀弁の女、遠津年魚目目微比売を娶して、生ませる御子、豊木入日子命、次に豊鋤入日売命」。ここに登場している「木国造」の「荒河刀弁」人物があります。解説によると、「木国造」は大和政権下の紀伊国の地方長官であり、「刀弁」は村長を表しています。つまり崇神天皇が紀伊国の長官だった「荒河刀弁」の娘である「遠津年魚目目微比売」を皇后として迎え、皇子と皇女が誕生したということです。荒川を記紀の時代の地名とする説の根拠になっています。
そして「日本書紀」の巻第五・御間城入彦五十崇神天皇の条にも同様の記述があります。
「妃紀伊国の荒河戸畔の女、遠津年魚眼眼妙媛、豊城入彦命、豊鋤入姫命を生む」。
この記述が「荒河」の地名の起源となっていると言われています。神武天皇から数えて十代目である崇神天皇の皇后が荒河の出身であったことが、現在の「桃山町荒川」の起源になっているのであれば、ここも天皇家と縁のある地域であったと言えます。
この史料をいただいたのは、僕が日頃から記紀や竈山神社の説明をしていたことから「確か桃山町史に桃山から皇后が誕生した記述があったように思います」と記憶を蘇らせてくれ、その冊子を探してくれたからです。冊子の提供を受けて「やはり崇神天皇の后は桃山出身の方だったようです」と出典を明らかにして話してくれました。
時代は下って、昭和62年9月26日に平城京跡から発掘された木簡には「荒河郷酒米五斗」と記されていたようです。推定715年から740年頃の木簡だそうですが、当地から朝廷へ献上した品の荷札だということです。ここからも当時から「荒河」地名が使われていたことがうかがい知ることができます。
土地の地名はその地の歴史を表しています。荒川の地名の歴史は古く、しかも天皇家に由来するものでした。Hさんから、貴重な史料を提供いただいたことに感謝しています。
そして昨日、Oさんが推理していた「紀の川筋に有力な豪族がいたのでは」の説との関連性もあるかも知れないと思いました。
教育に関して理想を掲げ、行動をしている皆さんと会う機会をいただきました。理想を掲げ実現するために行動する姿は人に感動を与えます。それは行動に移すためには人を説得するために企画書を作成しますし、その文章からは理想と熱意がほとばしります。読んだ人に感動を与え、その感動の連鎖が行動へとつなげていくのです。
その思いが相手に届くか届かないかは結果であり、少なくとも行動を伴うことが説得するための手段となります。何も行動がなければ、思っている結果を出すことができないからです。
理想を描き実現に向けてやるべきことはやる。結果はその時の社会情勢と時代の要請、関係者の理解と賛同、地元の皆さんの協力などによって左右されますが、行動があれば周囲に影響を与えることは真実です。
バタフライ効果の例えとして「今日の北京で1匹の蝶が空気をかき混ぜれば、翌月のニューヨークの嵐が一変する」と言われますが、人の行動とはその通りだと思います。小さな揺らぎが大きな変化につながっていく。その揺らぎを作り出せる人がいると、思いはバタフライ効果で波及していくのです。今はまだ誰も知らない小さな揺らぎが、やがて大きな変化へと発展していくことを期待しています。
ご一緒したことで心に伝わってくるものがありました。