わが国におけるお茶の歴史の一端を茶人である梅原さんから教えてもらいました。新型コロナウイルス予防対策として支援物資を贈っていただいた台東県と和歌山県と堺市がお茶で結ばれることを考えていることから、わが国のお茶の歴史を聞かせてもらいました。
お茶は奈良時代と平安時代に遣唐使や留学僧によって持ち帰られたと言われています。その元になっているのが「日本後記」(平安時代の815年)で、「嵯峨天皇に大僧都、永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されていることが日本で最初の記述です。
当時、お茶はとても珍しく貴重なもので、公家や貴族、僧侶などが飲むことができたとされています。
お茶は、日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されます。
平安初期(815年)の「日本後記」には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。お茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。この頃のお茶の製法は「茶経」にある餅茶であったようです。
鎌倉時代に臨済宗の開祖である栄西(1141年〜1215年)が登場します。栄西は宋に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われているのを見聞きしました。帰国してから日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著して、お茶の効能を説明したとのことです。
そして登場したのが和歌山県出身の華厳宗の僧侶、明恵上人(1173年〜1232年)です。明恵上人は京都栂尾の高山寺にわが国で最初のお茶を植えました。鎌倉末期から南北朝にかけては、寺院を中核とした茶園は京都からさらに広がり、伊勢、伊賀、駿河、そして武蔵などで栽培されるようになっていきました。
明恵上人は和歌山県有田川町が出生の地であり、高山寺で茶園を作る前に、故郷である和歌山県でお茶の木を植えたと聞きました。つまり茶園は京都から広がったのですが、最初に植えられたのが和歌山県だということです。
鎌倉時代になって将軍、足利義満(1358年〜1408年)は宇治茶に特別の庇護を与え、ここから宇治茶のブランドが形成されていったようです。
お茶の歴史の中ではあまり和歌山県は登場しませんが、明恵上人が大きな役割を果たしています。和歌山県のお茶の歴史の一員として加えて欲しいものです。
新型コロナウイルス予防が発端として築かれつつある台東県と和歌山県、そして堺市の友好関係の中に「お茶がつなぐ友好」をテーマの一つにすることは、それぞれの地域の歴史も取り入れることになると思います。歴史がそこにあることは起点がそこまで遡れますから、新型コロナウイルス予防のために台東県が支援してくれた行為は、過去からつながっていたという物語で語ることができます。創作に過ぎないという意見があるとしても、この機会に歴史を調べて関係性を浮かび上がらせることで、つながりはより強固なものになります。
何もないところに行為は生まれません。台東県から支援物資が贈られたのは、花咲み茶の谷口代表が台東県を訪ねたことに起因しています。昨夏、そのご縁で僕は台東県の皆さんと会うことができました。その出会いがなければ今回の支援物資提供は「ない」ことは間違いありません。
元がないところに何も生まれないのですから。そしてこのご縁の先を考える時、過去を捜してみることは当然のことです。これから始まる物語の前段にあるものを知っておくことが、つながりというものですから。そこで発見として台湾茶がつないだご縁というワードに、和歌山県と堺市出身の明恵上人と千利休がいるのですから。物語があるとこの先も継続性を持って、続きの物語を展開させることができます。お茶がつないだ今回の物語の第二章を楽しみにしています。
- 金融機関と現在の事業所への融資状況に関して話を伺いました。依然として融資の申し込みが増加しているので審査に時間を要しているようです。融資要件や融資の時期の見込みなどについて確認しました。
- 故郷の偉人の顕彰に関して話し合いました。故郷の偉人の功績を称え、伝えることは故郷への愛着と誇りを感じさせる取り組みです。新型コロナウイルス対策で取り組みは難しいところですが、この精神は継続してこそ価値があります。引き続き対応していきます。