活動報告・レポート
2020年3月30日(月)
鉄砲伝来

「種子島宇宙センターからロケット発射の瞬間を観た地元の人は、感動しています。何度観ても感動します。特に夜間の発射は感動します。大体午前2時過ぎに打ち上げられますが、夜空に光が飛び立つ場面は感動です。今年は5月21日の午前2時30分に発射予定です。発射の日はホテルが取れないほどで見学施設も前日から場所を確保しないと入れないと思います。ただ今からだとホテルもレンタカーも取れないかもしれませんが、年間6回ぐらいロケットが発射しているので観に来て下さい」と種子島の知人が話してくれました。地元種子島に、ロケット射場があることを誇りに思っていることが分かる言葉です。

また、種子島といえば鉄砲伝来の島で歴史的に意味のある場所です。

1543年、ポルトガルの商船が台風の影響で船体が傷み種子島に寄港しました。その時、ポルトガル人は14代島主の種子島氏と会い、持っていた鉄砲を見せたのです。鉄砲の威力に驚いた種子島氏は、すぐさま二挺を買いました。購入金額は2000両、現在の価値にして一億円だそうです。

藩主は鍛冶師の八板金兵衛清定に「同じ物を造るように」と命じました。種子島は砂鉄が採れる地域だったことから刀鋳造技術があったのです。八板金兵衛清定は、試行錯誤を繰り返しながら鉄砲造りに努めましたが、なかなか造れなかったようです。設計図がなかったからですが、それでも完成に近づいていきました。

ただネジの概念がなかったことから最後のところで止まりました。当時、わが国ははめる技術で物づくりをしていたためネジで接着する技術がなく苦心したようです。

鍛冶師の娘であった若狭さんは、滞在していたポルトガル人に「教えてあげて」と伝えますが商人のため、鉄砲技術を知らなかったため上手く進みませんでした。後にポルトガルから鉄砲職人が種子島に来てネジの技術を伝え、わが国独自の鉄砲が完成しました。

国産の鉄砲は種子島から堺や根来に伝えられていきます。時は戦国時代ですから、大名はこの新兵器を武器に戦の方法を変えていき、やがて戦国時代に終わりを告げることになります。

技術革新、新しい技術の導入、使い方など工夫をした者が有利になるのは今も昔も同じです。歴史は偶然のように思いますが、歴史は強い思いと人が創り出していると思います。戦国時代、外国から日本に行く海路は東周りでしたから、種子島がゲートウェイになっていたわけです。そしてポルトガル人に対して鍛冶師の父に鉄砲造りのお願いをした娘の若狭さんは、このご縁でポルトガル人に付いて同国に行ったとドラマがあったことを知りました。まさに歴史は人が生きたドラマだと思わせる話です。

ところで鉄砲伝来は1543年です。歴史の勉強で「以後予算かかる」と覚えました。今でも覚えているのですが、小学生の頃は、ポルトガル人が鉄砲をくれたと思っていました。

実際は貿易のため売買していたのですから、経済活動であり、島主の種子島氏にとっては戦乱の時代に鉄砲は売れると予測して戦国大名に売るための先行投資だったわけです。大金を支払い購入した最新技術を自らのものにするため技術導入も行っていたわけです。

歴史の出来事を経済的観点から見直すと、人は今と変わらない現実的な活動をしていたことが分かります。

鉄砲伝来の話を聞く機会に恵まれたのは「歴史好き」から来たことだと思います。好きなことには磁力があり、必要な時期に必要な情報を引き寄せてくれます。今回の話も後々に生きてくる話だと思います。鉄砲伝来の時の島主の考えと行動は、時代を超えて現代にも通用する話です。