「尚古集成館」の松尾館長の話を聞かせてもらいました。この地は、江戸時代、わが国最初の洋式工場群だった場所で、その価値を認められて世界遺産に登録されています。
江戸時代、薩摩藩の島津斉彬氏は、日本をヨーロッパのように強く豊かにしなければならないという考えの持ち主でした。薩摩藩は琉球を通じてヨーロッパとの貿易をしていたので、その技術を導入して近代化、工業化事業を推進しました。その拠点になったのが集成館です。
島津斉彬氏は、日本が戦う相手は「イギリスやフランスであり他の藩ではない」と考え薩摩藩が持つ技術、ノウハウを他の藩に伝えオール日本で列強に対抗する態勢を整えようと考えていました。ところが父親は「藩の技術を他の藩に教える、持ち出すとは何事だ」と怒り、対立することになります。斉彬氏は国を守る。父親は藩を守る、考え方が違ったのです。
当時の薩摩藩は72万石でしたが、白米で石高を測らず籾殻付きのお米で石高を算出していたようで、実際はその半分程度、36万石ぐらいだったそうです。つまり藩の力を大きく、強く見せるために偽装していたことになります。
しかし藩財政が良かったのは、外国と貿易をしていたからだということです。貿易によって稼いでいたため、石高にこだわることなく幕府に従うだけの他の藩とは違う路線を取ることができたのです。そのため世界情勢に敏感で外国の情報が入り、藩に明治維新につながる考えが芽生えていったのです。
薩摩藩の鉄砲技術は海路で堺や根来に伝わり技術革新へと発展していきますが、これが明治維新の種火になっていくのです。私達が歴史を学ぶのは、故郷のことを知り、故郷に誇りを持つことにあります。誇りを持つことで地域が輝いていきます。
ところで島津斉彬氏は、「軍備の強化だけでは国を守ることはできない。人々の生活を豊かにしなければ国を守れない」と考えたようです。軍備強化を続けたら藩の財政は破綻することが分かっていたので、人材育成のための教育、職人を育成しての工芸品の振興に努めました。強兵だけではなく、財政を強めるため富国も大切なことが分かっていたのです。
誇りを持たなければ地域も故郷の偉人も輝かないのです。地域を輝かせるのは私達の役割ですから、歴史を学び伝え誇りを持ちたいと思います。
松尾館長は、かつて外国人歴史家と話した内容を伝えてくれました。「日本という富国強兵の成功事例があったから、アジアの国々は列強からの植民地支配から脱却できた。もし日本がなければ21世紀もアジアの国々は植民地のままだったと思う。当時、日本と戦った国は、日本人の気概と列強と戦える技術力などを感じ、日本とは戦えない、友好関係を保つべきだと思っていたようだ。アジアの国々を従わせることができたが日本を従わせることは出来なかった」という話です。私達も心したい話です。
この集成館が世界遺産になったのは、この思想があったからです。江戸時代から明治時代にかけて近代化を図った建築物の価値に加えて、この思想があったからこそ世界遺産に登録されたことを聞きました。オランダの書物を元にヒントを得て日本独自の技術に置き換えて物を造ったこの思想と歴史が評価されて世界遺産へとつながっていったのです。
だから集成館はできた背景にある思想を分からなければ価値は分からないのですからこの点、世界遺産の熊野古道に似ています。