活動報告・レポート
2020年2月16日(日)
いろは丸事件
浜岡発電所視察

静岡県の浜岡発電所の視察を行いました。昨日の都内でのエネルギー研修に引き続き、良い機会なので静岡県に移動して視察を受け入れてもらいました。安全審査基準に対応するための設備改修を図っていて、状況などを丁寧に、そして熱心に説明してくれました。熱意は人の心に届きますから、視察した私達にも伝わってきました。

いろは丸事件

企業広報と危機管理の専門家の方から「カチカチの頭ではPR上手に負けてしまう」の良い例として坂本龍馬が紀州藩と交渉した「いろは丸事件」が参考になると伝えてくれました。

以下の引用は「産経WEST」の「坂本龍馬・いろは丸事件」からです。物語として参考になるので長文となりますが、一部を抜粋いたします。

元号が明治に変わる前年の慶応3(1867)年4月24日、坂本龍馬ら海援隊が操船する「いろは丸」が瀬戸内海を航行中、紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突して沈没した。沈んだ船は伊予・大洲藩からの借り受けたもの。しかも積み荷が海の藻くずと消える始末。これでは収まらない龍馬は国際ルールをたてに紀州藩相手に前代未聞の損害賠償請求訴訟を起こす。後にいわれる「いろは丸事件」の始まりである。

・世論を背に

慶応3年5月15日に交渉は再開した。海援隊の長岡謙吉によると、初日は土佐藩から龍馬、小谷耕蔵、腰越次郎、岩崎弥太郎ら8人。紀州藩からは高柳楠之助、岡本覚十郎、成瀬国助、福田熊楠ら9人(11人の説もある)が出席したという。

龍馬側は当時、ミニエー銃400丁含む銃火器3万5630両、金塊など4万7896両198文を積み込んでいたとし、これに相当する損害賠償を要求。

さらに、航海日誌や談判記録をもとに万国公法にのっとり判断すべきとし、イギリス人商館主と親しい岩崎弥太郎を使い、イギリス領事や海難審判に詳しいイギリス海軍提督を引っ張り出し、裁定を仰ぐことを要求した。

蒸気船同士の事故も国内初の出来事だが、互いに航海日誌を持ち出しての談判も初。まさに初ものづくしの中、紀州藩は「幕府(長崎奉行所)の公裁を仰ぐべき」と反論するのみだった。

この間、龍馬は自作の俗謡を花街に流す。

船を沈めたその償いは 金をとらずに国をとる

海援隊といえども脱藩浪人の集まり。紀州徳川55万5千石を相手に「国をとる」気概は町人や諸藩の士から喝采を浴びた。

・黄金のライン

紀州藩は龍馬ら海援隊との交渉を避けると、藩の勘定奉行、茂田一次郎が、今回の交渉で龍馬側の背後にいた土佐藩参政、後藤象二郎と交渉にあたる。参政とは内閣総理大臣のような存在で、藩政の実権をにぎっていた。

だが、そのころ貿易の重要性を認識し、龍馬と急接近中だった後藤が簡単に紀州の申し出に乗るはずもなく、交渉は決裂した。しかし、「一戦も覚悟」とする茂田の激怒ぶりには後藤も驚いたらしい。紀州藩にイギリスへの留学経験を持つ薩摩藩士、五代才助(友厚)を紹介する。

五代は龍馬とも親しく、薩摩、土佐両藩ともに政治的な結びつきを強めていたときだけに、見事な連携だった。これにより、沈没事故発生から約1カ月後の5月29日、賠償金約8万3千両(その後7万両に減額和解)を支払うことで決着する。

・身内の裏切りか?

すべてが丸く収まったようにも見える今回の交渉だが、平成18年に鞆の沖の海底に眠るいろは丸を潜水調査した際、古伊万里焼の茶碗の破片などが大量に発見されたが、龍馬らが主張した銃火器は見つからなかった。

つまりミニエー銃は、龍馬お得意のハッタリだった可能性が強い。金塊も見つかっていない。

問題の賠償金は慶応3年11月7日に完済され、いったん土佐藩が預かった後に龍馬に支払われるはずだった。しかし、その8日後の11月15日、龍馬は京都・近江屋で何者かに襲われて命を落としている。

後藤はこのあと政治家・実業家として成功し、岩崎は三菱財閥の礎を築く。また、五代は大阪商工会議所の初代会頭に就任するなど関西経済界のドンとして君臨した。

3人がこの時に得た大金を元手に起業したとした。龍馬暗殺の首謀者は幕府の京都見廻組とされているが、この後藤らの犯行説も暗い影を落とす。龍馬は身内に裏切られたのか。

以上が「いろは丸事件」の概要です。

龍馬は「国際ルールをたてに交渉を始め、続いてイギリス海軍の提督まで引っ張り出してきた。さらに紀州藩を悪者仕立てにし、まるで子どもが大人に挑むような図式を作り、世論を味方につけることも忘れない。大藩相手に暴れに暴れまくった龍馬」の作戦と行動は交渉のやり方としての参考になります。