坂本龍馬生誕地を訪れました。この場所は「ホテル南水」の近くにあり、歩いて行ける距離にありました。ここで誕生した龍馬が志を立て、後に薩長同盟から大政奉還というわが国の大事業を演出するとは、誕生した時は誰も思っていなかったのではないでしょうか。一人の人間がやり遂げるには大きすぎる偉業ですし、一人の人間がやり遂げたことは人間の凄さを感じ、後の時代の人に勇気を与えてくれるものです。
龍馬生誕地の碑に「明治百年記念」と記されていて建立は明治百年の記念事業であることが示されています。その碑の前には案内板とベンチが設置されていて、ここを訪れる人を迎えてくれています。今は大通りに面していて当時の町の面影を感じることはできませんが、ここから明治維新に続く物語が始まったと思うと、明治から現在までの歴史に遭遇しているような空気を感じました。それは冷たくて、覚悟を持つことを試されているような空気でした。
歴史上、確かにこの大事業をやり遂げた人間がいたことは事実ですから、この場所には志と行動こそが歴史を動かす力になることを感じさせてくれる空気がありました。単に2月の冷たい空気に包まれているのではないと思います。わずか33年の生涯であり、歴史的な偉業を成し遂げるのに活躍したのは5年間だったともされています。
5年という時間が長いか短いかに意味はなく、5年間も「この国を洗濯するため」に活動した意思は凄いと思いますし、時代が変わろうとした時に登場し、時代の変わる時間の針を大きく進めたのです。
この生誕地については、高知市のホームページの解説を以下に記します。
「高知城下本丁筋1丁目,現在の高知市上町1丁目上町病院前に,誕生地の碑は建っています。父坂本八平直足,母幸の次男として,1835年天保6年11月15日,この地で誕生した坂本龍馬は,1867年11月15日の奇しくも自らの誕生日に,京都近江屋で凶刃に倒れるまでのわずか33年の生涯にあって,類まれなる行動力と,勝海舟や松平春嶽など素晴らしい出会いを重ねることで,薩長同盟の締結や大政奉還など数々の功績を残し今も根強い人気を誇っています」。
龍馬生誕地の碑のある場所が生家の表玄関で、「ホテル南水」の玄関口が生家の裏側だったそうです。
ところで愛媛龍馬会の会員さんから興味深い話を聞かせてもらいました。
「愛媛県は紀州藩支藩であったように紀州藩の傘下に入っていました。明治維新の時は紀州と同じ立場にあったと思います。中でも龍馬暗殺の犯人ではないかと疑われていた三浦休太郎ですが、実は西条藩士の生まれなのです。現在の西条市出身ですから、彼は西条から紀州にご縁があることから土佐からすると紀州と同じように敵対していたと思われています(笑)。紀州派はいろは丸事件で龍馬に多額の賠償金を取られていますから、紀州と土佐は龍馬の歴史からすると敵対している関係に見えますから、愛媛県と同じです」という話です。
三浦休太郎といろは丸については次のような記述があります。
「慶応3年(1867年)4月、いろは丸沈没事件が起こり、紀州藩代表として海援隊代表の坂本龍馬と交渉したのが三浦休太郎でした。国際法を用いられて敗れ、多額の賠償金(8万3000両)を支払う結果となってしまう。そんな折、龍馬が京都近江屋で暗殺され、賠償問題で恨みがあったとされる三浦休太郎が海援隊士に容疑者として狙われることとなった」という記述です。
真偽のほどは分かりませんが、「龍馬は紀州とは『いろは丸沈没事件』があるので、紀州では龍馬のことを良く思っていなかった歴史があったのではないですか」という話もありました。
やはり歴史は面白いと思います。江戸時代の事件が、後々の両県の関係にまで影響を及ぼしているからです。「歴史を知ることが現代を知ること」そう思います。
その愛媛県松山市で開催される「第32回龍馬World大会」のテーマは「慶応三年龍馬が紡ぐ命のバトン」となっています。龍馬が暗殺されたのが慶応3年で、その志を受け継ぐ人物が松山市に誕生していることをテーマの素にしています。
郷土の偉人である正岡子規と秋山真之の二人の人物の功績を、龍馬と共に全国の龍馬ファンと地元に伝えようとしています。地域づくりに参考になる考え方と取り組みだと考えています。