母が亡くなったことを受けて、父に報告のためお墓参りに行ってきました。墓地への階段を上る時、「母はこの階段は急で長くて、上るのが辛くなってきました。お母さんが上れなくなった後は頼んでおかよ」と言っていたことを思い出しました。
昨日までお世話になった住職さんへの感謝の気持ちを届けると共に父には「お母さんがそちらに逝きました。迎えてあげて下さい」と話し掛け、お花を供えた後、手を合わせて「どうか次の世界でも幸せでいて下さい」と再び話しました。
お墓に着いた最初に戻りますが、お墓にはきれいな花が供えられていました。11月6日の火曜日に、母と友人のYさんがお花を供えてくれていたのです。Yさんから「先週の火曜日、お母さんと一緒に『よってって広場』に行ってお花を買って来ました」と聞いていたことを思い出しました。生前の母からも「Yさんについて行ってもらってお墓参りに行ってきました。良いお花が安く売っていたので、いつもより豪華な花を供えました」と聞いていたことも思い出しました。そのためこのお花をそのままにして、持参したお花を周囲に供えて豪華さを出しました。たくさんのお花を供えて幸せな空気の渦巻くお墓になりました。
「もう辛いこと、苦しいことはないと思いますから、幸せでいて下さい」と話し掛けてお墓参りを終えました。
母の命日は11月10日です。毎月10日が月命日になりますから、お花でいっぱいにしたいと思っています。
母親は「『子どもに迷惑をかけたくないので、朝になったら死んでいるような終わり方をしたい』と話していたよ」と伝えてくれました。自分の終末まで子どもに迷惑を掛けたくないと思っていたようです。そんな時、ある医師が「ピンピンコロリのような死に方、苦しまないで死ねる人は本当に少ないですよ」と話していたことを教えてもらいました。
「お母さんが望んでいたこと、しかも難しいこと、さらに子どもに迷惑をかけないでいたいという思いが伝わったと思います」と言葉をいただきました。僕としては迷惑をかけて欲しいと思いますし、もっと、もっと、もっと会いたかった、話したかったと思っているのですが、母がいないという現実を受け入れざるを得ないのが寂しいです。
でも多くの人から「お母さんは幸せだったと思います」、「子どもの話をしている時は嬉しそうでしたよ」、「章浩君がいるから頑張れる」、「子どものためにできることは何でもやりたい」、「願いは子どもの健康のことだけでした」など母が話していたことを聞かせてもらうと「やっぱり幸せだったのかな」と思うようになっています。
「もっとやりたいことや望みがあったんじゃないかな」と思うことがあります。叔母さんが「そう言えば、来年、東京に行きたいと話していたことがありました」と言う話を聞かせてくれました。母は東京に行ったことがないのです。「そんな簡単なことをしてあげられなかった」という後悔の念を感じます。「簡単にできることなのに何故やれなかったのか」そう思うと「ごめんなさい」と言葉にしています。
でも叔母さんは続けて「『章浩が今日来るからおかずを用意しています』と話していましたよ」と話していたことを教えてくれました。平成30年10月3日のことです。叔母さんが赤飯を炊いてくれたので母がおかずを作って誕生日をお祝いしてくれたのです。
さらに続けて「『章浩が家に来てくれたのでコロッケ4個、食べてくれました。美味しいと言って全部食べてくれました』と嬉しそうに連絡が来ていましたよ」と話してくれました。どちらもとても些細なことですが、母にとっては重要で幸せな出来事だったかも知れません。僕が家に来てくれることをとても楽しみにしてくれていたことを知り、「もっと会いに行っておけば良かった」と思うばかりです。行きたい時に行ける人がいる。行ける場所がある、こんな幸せなことはありません。しかも絶対的に味方なのですから安心感が違います。
「僕のお祝いに赤飯を食べてもらう。僕のためにおかずを作る。僕にコロッケを食べてもらう」、こんな出来事が自分の幸せだと感じてくれる人は他にいません。
いつも「今日食べに行くから」と言いながら、仕事の関係で実家に行く時間が遅くなっていました。母からはいつも「いつごろになりますか」とラインが来るのです。僕は「もうすぐ行きます」とラインで返事をして実家に向かうのです。
母からは「突然言ってくるから何もないよ。先に言ってくれていたら用意しておくのに」と何度も言われました。僕は「次は先に言うから」と言いながら、その次も「今日、行くから」と話しながら、実家にはやはり遅れていくのです。また「いつごろになりますか」と母からラインが来ます。同じことの繰り返しですが、振り返るとこれも幸せな時間だったと思います。
「お母さんは章浩君が来ることをとても楽しみにしていましたよ」と話してくれたように、子どもといる時間が幸せな時間だったと今は思っています。
損得なしに、自分のことを考えるのではなくて僕の幸せだけを考えてくれている母には感謝の言葉があるだけです。
他にも母が言う言葉はいつも「食べていますか」、「時々、休むように」、「無理はしないように」、「体に気をつけて」、「いつでもおいで」などでした。考えてみると、こんな言葉をかけてくれる人は他にいません。「母の思いを知って母への気持ちを伝えたら良かった」と思うばかりです。
母はどんな時も僕の味方でした。こんな素敵な母から生まれて、育ててもらって、成長させてもらって、本当に幸せな日々を過ごしていたと思います。当たり前のような幸せな日々を、これが幸せな日々とその時に感じられたら、幸せ度はもっと増すと思います。
母との時間、母との会話で幸せな時間をもっと感じたかったと思います。今日も感謝の言葉しかありません。「本当にありがとう」。
予定していた議会報告会を予定通りに行いました。主催者が「片桐さん、本当に大丈夫ですか」と心配してくれましたが、「大丈夫です。明日はやります」と答えて本日に至りました。案内チラシを配布して楽しみに待ってくれている人がいるのですから、中止することはできません。
主催してくれたのはTさん、会場を提供してくれたNさん宅にお邪魔して議会報告会を行いました。時間は午後1時30分から午後3時まででした。会場に向けて走り出す時、「今日は大丈夫だろうか」と内心問い掛けたのですが、内心からの答えは返ってきませんでした。
しかし運転している時、「お母さんも一緒に向かってくれて応援してくれている」と突然思い「一緒にいてくれるから勝たなければならない」と気を取り直して、議会報告会場に入りました。
母を亡くした後の初陣です。初陣は不安がありましたが、話し出すと、しっかりと筋道だった説明をすることができました。報告内容は「明治維新150年と日墨間の条約改正130年記念シンポジウムの開催について」、「和歌山南スマートインターチェンジの進捗状況について」、「民間ロケット発射場の誘致について」、「和歌山県が誇りとする歴史について」、「和歌山県の誇りとなる将来の県土発展の大型プロジェクトについて」、「和歌山県の誇りについて」、そして「台風第21号被害への対応について」を説明しました。
皆さんにとって有意義な県政報告になれば幸いです。母が見守ってくれている中での議会報告会を終えました。