いよいよ今来て欲しくない日が訪れました。告別式の朝です。昨夜から叔母さんと共に葬儀式場に宿泊し母と一緒にいました。一緒に寝て、一緒に起きられるのはこの日が最後でした。午前2時頃、「おやすみなさい」と話し掛けて母の横に座り、朝6時前に「おはよう」と挨拶をして起床しました。
母親と朝の挨拶を交わす最後の一日です。「おはよう」の当たり前の挨拶ができなくなるなんて想像もできませんが、とうとう現実の日を迎えました。
二日間、母親と一緒に寝泊まりしましたが、一緒に寝泊まりした日は何年ぶりのことか分からない程ですから、寂しくて辛いけれど、幸せな日だったかも知れません。
さて午前6時前から8時30分頃まで母親と会話をつづけました。時折、涙で言葉が詰まりましたが、日頃交わすことのできなかった話をすることができました。
やっぱり分かったことは、母親は優しくて優しい人だということです。「優しくて優しい人」という形容がぴったりな人が僕の母親だと思います。これは僕の誇りであり自慢できることです。
また親戚の皆さんと母親の携帯電話の写真を見ながら、若い日の母親の姿、旅行している時の母親の姿など話し合いました。
そして迎えた午前11時からの告別式。大勢の皆さんに見守られながら母親は旅立ちの準備を始めました。お念仏が終わりに差し掛かると、旅立ちの準備が整い始めているように感じました。「いよいよお別れの時が来たかな」と思いながら、その時を待ちました。読経が終わり、お坊さんが会場を後にしました。
辛いけれど僕からのお別れの挨拶をする時間がやってきました。この遺族代表の挨拶は全くやり遂げる自信はありませんでした。「今日は無理」と思いながら、気持ちをしっかりと持つことに集中して挨拶を始めました。
「お忙しい中、本日、ご会葬いただきました皆様にお礼申し上げます。母は昭和10年・・・」。いきなり涙が溢れそうになり言葉が詰まりました。「これは無理かな」と思いましたが、何とか持ちこたえなければと思い冷静になろうとしました。
「母は昭和10年5月生まれですので、母の10歳代は太平洋戦争の真っ只中にありました。戦火により和歌山市から貴志川町に疎開し、そこで約1年、生活をしたそうです。戦火が収まり和歌山市に戻ったところ、昭和25年1月、母の母親がわずか39歳の若さで亡くなったのです。当時、母は15歳の中学三年生でまだ在校中でした。二人の弟と三人暮らしをすることになるのですが、15歳の女の子がどうして弟二人の面倒と三人の生活ができたのか謎というか、相当な苦労をしたことは容易に想像できます。
どんな苦労を体験したのかは分かりませんが、中学校を卒業してから働き始め、弟の生活を支えていたのです。母の人生は苦労の連続だったと聞くことがありました。
その後、訪れてくれた皆さんや親戚の方々と母の話をしたところ、母の人生と人物像が浮かび上がりました。
母は優しい、優しい人、自分を犠牲にしてでも人のためになることをしようと思って行動していた人。物を大切にする人。お金の無駄遣いをしない人。辛抱強い人。そして人の悪口を言わない人だったということです。
僕が思っている母親の姿と皆さんが思ってくれている母親の姿が一致していたので、表裏のない、やはり優しい人だったんだなと思い安心しました。
昨夜、親戚の方々と話をしたのですが『お母さんは幸せだったのだろうか』と言う話になりました。『辛いことがたくさんあったから』、『辛抱してきた人生だったから』という意見がありましたが、『子どもが立派に成長してくれたから幸せだったんじゃないかな』『願っていることは子どものことばかりだったから、子どもの姿を見て幸せだったと思います』、『子どものためになることをやることが生きがいだったから、子どものためにやれることがあり、やって来られたので幸せだったと思います』などの意見もありました。
そして『お母さんは、若い頃に色々苦労をしたけれども幸せな人生だった』という結論になりました。
そして一人の人からこんな話をいただきました。『お母さんは憧れの人でした』という言葉です。この母親に対する気持ちを聞いて、『やはり母親は素晴らしい生き方をしてきたし、幸せな人生だった』と思いました。人が憧れてくれる人生を生きた母親を誇りに思っています。
これからも皆さんの人生の中に母親の存在があれば嬉しく思いますし、母と同様に残された私達ともおつきあいをしていただけたら幸いです。これからもよろしくお願い申し上げ、お礼の挨拶とさせていただきます。ありがとうございました」。
お礼の挨拶を終え旅立ちの時を迎えました。母親の棺桶に皆さんからたくさんのお花を添えていただきました。旅立ちに備えて眠っている母の顔を見た時、「最後かな」と思い「今まで本当にありがとう」の言葉を伝えると限りない涙が溢れましたが、清い心に囲まれて旅立つことができると思いました。
位牌を持ち霊柩車に乗り込み斎場に向かいました。斎場で最後のお念仏を唱えていただき母親の火葬のボタンを押す瞬間「ごめんね。お母さん。今までありがとう」と話し掛けてボタンを押しました。涙が溢れました。
午後2時。再び斎場に戻り遺骨を拾いました。「お母さんがこんな姿になってしまうなんて」と思うと、また涙です。あんなに健康で元気だったお母さんが、小さな壺に収まっています。信じられない思いです。僕を生んで育ててくれた大きな存在の母親が、僕の手に収まるほど小さな壺の中にいる。こんなことは信じたくないと思いました。
母の遺骨を持って初七日を執り行いました。告別式、初七日はすべて終了。母親が旅立ちました。幸せな世界に行って欲しい。心から願っています。これからは天上から僕を見守ってくれていると思います。いつまでも僕にとってかけがえのないお母さんですから。
「お母さん、ありがとう。心配しないで下さいね」。