こんな日が来るとは思いもしませんでした。突然の別れがこんなにあっけなくて、言葉にならないものだと感じています。午後4時19分、母親の友人のYさんから電話が入りました。「お母さん。土曜日から携帯に電話しても出ないのだけれど、どうかしましたか」という電話でした。有田市から海南市を和歌山市へ向いて走行している時だったので、実家に急いで行こうとしました。気になったので母親の弟に電話をして「お母さんの様子を見に行って欲しい」と依頼したところ、「鍵をあけて見てくる」と行動を起こしてくれました。
叔父さんが母の家に入った時、「ベッドの上で身体が冷たくなっている。直ぐに来て」と連絡が入りました。それから約10分後、実家に入るとベッドの上の母の姿が飛び込んできました。手を握ると冷たくなっていて、覚悟をしなければならないと直感しましたが、「でも大丈夫、起きてくれる」と思い、電話から聞こえてくる消防署の人の指示により心臓マッサージを続けました。でも目を覚ます気配がなく起きてくれませんでした。
心臓マッサージをしている時から涙がこぼれてどうしようもありませんでした。消防署員が駆け付けてくれた時、「もう硬直しているので死後時間が経っていると思います」という宣告を受けましたが、それでも信じられませんでした。「こんなことがあるはずはない」と思いながらも、「もしかしたらこの現実は現実かな」と思いました。
消防署でできることはないので続けて警察が来てくれました。警察の仕事は検死なので、母親はもう生きていないことが分かりました。言葉で話そうとすると涙で言葉にならないのです。続いて医師が来て「虚血性心疾患」による死亡と話がありました。トイレを見たところ、嘔吐した形跡があり、ベッドからトイレに行く途中、玄関にも嘔吐の跡がありました。
胸の痛みがあり「しんどかったのかな」と思うと、「しんどい時にいられなくてごめんなさい」という気持ちになり、もう普通ではいられませんでした。
電気毛布はそのままの状態だったので身体は温かかったのですが、電気毛布に触れていない手と顔は冷たくなっているのです。
最後に母親と会ったのは先週11月7日の水曜日でした。視察から帰って実家に立ち寄ったのです。その時、視察の途中から胃が痛み始めたので胃薬をもらいに行ったのです。処方してもらっていた胃薬と風邪薬をもらって飲みました。「心配しなくても大丈夫」と言いましたが、母親は心配そうに「無理をしないように」と笑顔で話してくれました。1週間分も胃薬をくれたので「こんなにいらないよ。お母さんの分がなくなるから、1日あれば治っているから」と答えたのですが、「薬はまだあるから持って行って」と全部いただいたのです。
そして用意してくれていた夕食は「胃が痛いから今日はいらない」と断ってしまったのです。これが最後の夕食になるから胃が痛くても食べておけば良かったと後悔しています。母親は僕のために、食事を作って待ってくれていたのです。本当に残念で、母親が作ってくれた食事を食べないという親不孝なことをしてしまいました。
いつも「何か食べるものある」と聞くと「何も用意していないよ。来るなら言っておいてくれないと」と言いながらも、「来て下さい」と話してくれるので実家に行くと、食べきれないほどの量の食事を用意してくれていたのです。
「もう年だからこれだけも食べられないよ」と言うのですが、毎回、たくさんの食事を作って待ってくれていたのです。きっと母親は僕はまだ高校生ぐらいだと思っていたのでしょう。たくさん食べて成長することを願っていたと思います。まるで57歳の高校生のようで、かつ、お母さんの子どもだったのです。
今日、的確にこの状況を伝えるべき言葉はありません。叔父さんが母親に向かって話し掛けていました。ぼろぼろと涙が溢れました。
「よく頑張ったな。本当に頑張りました。もうゆっくりして下さい、あなたのように頑張った人は他にないと思います。勲章をあげますよ。本当に頑張りました。これだけ自分を犠牲にして人のために尽くした人は他にいません。どんなことを言われても辛抱強くて、我慢をして。その心は章浩に引き継がれていますよ。章浩もあなたと同じように人のために尽くしています。もう成長しているので安心して下さい」と話し掛けているのです。
叔父さんが言うように母親は本当に自分のことを犠牲にして人のために尽くした凄い人でした。そして辛抱強くて、明るく優しく、多くの人に好かれる人でした。いつも友人たちと一緒にいることを安心して見ていました。
昭和39年1月5日、母親のお母さんが食道がんで亡くなったそうです。母親が中学3年生の時だったそうです。2歳年下の弟の叔父さんと6歳年下の弟の面倒を見ながら育てたそうです。どんな苦労があったのか想像できませんが、叔父さんは「お母さんみたいに苦労してきた人は知らない」と言ってくれたから、並大抵の苦労ではなかったと思います。そんな苦労をしながらも僕を産み育ててくれたのです。母親がいなければ僕はありません。今の全てがあるのは母親のお陰だと思っています。
親戚の咲子さんが話してくれました。「章浩がいるから元気でいられる」といつも言っていたこと。「今日、章浩が来るから食事を作らなければ」と話していたこと。どれだけの愛情に包まれていたのかと思うと、お母さんに親孝行できなかったことを悔いています。いてくれることが当たり前だと思って甘えていました。一人暮らしなのだから、もっと実家に行くべきだったこと、電話やラインをもっともっとやればよかったこと。食事や旅行に連れて行ってあげれば良かったこと。何もできていないことを悔やんでいます。 母親は僕のことを「自慢の息子」と話してくれていたようですが、全然ダメです。何もできていないのです。母親の命も守れなかったのですから。そして最後に話をすることもできなかったのですから。突然すぎて、母に聞きたいことがたくさんあったのに、まだまだたくさん話をしたかったのに。何もできていないことを悔やんでいます。
「来るから先に言ってくれていたらもっと用意できたのに」と言いながら、食べきれない量の食事を食べさせてくれたこと。「もう、こんなにたくさん食べられないよ」という僕に「食べなければ元気にならないよ」と言ってくれた母。
たくさん食べた後に「アイスクリーム食べる」、「ヨーグルト食べる」、「コーヒー飲む」と言ってくれた母。そして「じゃ帰るわ」と立つと「栄養ドリンク持って行って」、「お茶持って行って」、そして「栄養剤を持って行って」とたくさんくれた母。そんな少し嬉しい場面が無くなると思うと何とも言えない気持ちになります。
今日、傍にいますが遅すぎました。子どもの時のように母親の傍にいられることを嬉しく思った日ではなくて、今日の傍にいる日は最も悲しい日です。
お母さん、ありがとう。今ここにいるのはお母さんのお陰です。本当にありがとう。