活動報告・レポート
2018年8月13日(月)
思い出話

お世話になった方々のご家族とお会いし、それぞれの思い出話を交わしました。

少年野球のコーチをしていました。病院から自宅に戻って治療を続けていました。ある日「野球練習場に連れて行ってほしい」と言うので、その場所を訪問したのです。グラウンドに入った主人は子ども達に声を掛けアドバイスをおくりました。他のコーチには、子ども達の性格を伝え指導方法をお願いしていました。身体がしんどいので長い時間グラウンドにいられなかったのですが、グラウンドを去る時、その場でお辞儀をして「ありがとうございました」と大きな声で感謝の言葉を伝えたのです。まるで練習場に来るのは最期だと悟っていたように思いました。

それから一週間後、主人は亡くなりました。きっと最期が分かっていたのでしょう。指導をしてきた子ども達と同じ指導者であるコーチに別れの挨拶をしたかったと思います。最期にグラウンドに立てたことを喜んでいると思います。

すい臓がんと闘っていましたが勝つことはできませんでした。しかし多くの人の支えがあって人生をまっとうできたと思います。主人は抗ガン剤治療を続けていましたが、副作用で苦しみ痩せてきたので、「自宅に帰りたい」と話していました。主治医に話をしたところ「そうですね。本人の希望通りに自宅に戻って下さい」と伝えてくれました。主人は自宅に戻ることを望んでいましたが、私は「もう病院に戻ることはない」と感じていました。

自宅に戻って立つことさえできませんでしたからベッドで寝たままの状態でした。しかし安心したかのような表情をしていました。自宅に帰ってから5日後、この世から旅立ちました。たくさんの人に出会えた人生だったと思います。片桐さんが来てくれて主人も喜んでいると思います。

片桐さん、来てくれたのですか。本当にありがとうございます。私も腰が曲がってきたので、片桐さんを見上げるようになってきました。主人が去ってから時間が経過しているのに忘れないでくれていることを嬉しく思います。この仏壇のある部屋は主人がレイアウトしているので散らかっていますが、まだそのままにしています。

自宅の玄関には僕のポスターを貼ってくれていました。少し日焼けしているポスターだったのですが、それだけ玄関先で時間が経過していることに感謝しています。

主人は亡くなる三日前にも自治会の空き缶回収の仕事をしていたので、あまりにも突然のことでした。最期まで皆さんのお役にたてる仕事をしていたように思います。責任感が強い人だったので、心残りのないように終活をしていたような気もしています。100回も続けていたゴルフコンペを主宰していましたが、「100回を区切りに終わりにしよう」と話して100回目のコンペをし終えていました。民生委員の仕事も後輩に引き継いで、自身はその任から降りていました。自治会の空き缶回収の仕事も最後までやったので、やり残したことはないと思います。

亡くなりましたが、助け合える仲間という財産を残したように思います。困った時に人を助けてきた人なので、今度は私達が多くの人から支えてもらっています。若いころは自分の意見を押し通す性格でしたが、自治会の役員に就かせてもらってからは周囲の人の意見を聞くようになり、人間的に成長させてもらったと思います。役員をしたことで主人は人として成長させてもらってきたので、成長を続けられた良い人生だったと思います。

主人は抗がん剤治療を続けていたので最後辺りは手が痺れていました。手が痺れていたので字が書けないし、思いを書き残すこともできませんでした。自分の想いや伝えたいことを書きたいけれど書くことができなかった。それが辛かったように思います。しんどいので言葉も出せなかったし、文字も書けなかったことが残念だと思っています。

でもお世話になった人のことは聞いていました。皆さんが来てくれているので、やってきたことは間違いなかったと思っています。

皆さんの思い出話を聞かせてもらうことで、改めて生きていることが人生そのものだと感じました。正解も不正解もないのが人生であり、語れることを残すことが人生だと思います。

語れることを残すこと。そんな毎日を過ごしたいものです。