本日は午前から約30人の皆さんの自宅の訪問を行いました。皆さん共、温かく迎えてくれたことに深く感謝しています。
Tさん。「片桐さん、来てくれたのですか、とても嬉しく思います。そろそろ来てくれるかなと主人と話していたのですよ。ただ残念なことに主人が写真撮影に出掛けているので不在になっています。私だけの応対になるのですがよろしいでしょうか」と迎えてくれました。いつもTさんは大歓迎してくれるので、「勿論、嬉しく思います」と答えて、暫く懇談させてもらいました。今年の写真作品展の日程や作品作りなどの話を聞かせてもらいました。そして「片桐さんの県議会での様子はテレビで拝見しています。映っている時は二人で応援しています」と話してくれました。
このような見えないところで応援してくれる皆さんがいることを力強く感じていますし、嬉しく思います。見えない力に支えられて議員活動ができていると思っています。Tさんのおもてなしに深く感謝しています。
Mさん。「わざわざ来てくれたのですか。まぁ入って下さい。今回も議会報告レポートを届けてくれたのですね。きっちりとまとめてくれているので、いただいたレポートは読んでいます。作成するのが大変でしょう」と話してくれました。
そして「もう前回の選挙から3年も経過しているのですか。月日が経つのは本当に早いですね。応援していますから頑張って下さい」と伝えてくれました。
Uさん。玄関を開けた途端、「片桐さん。丁度、今日電話しようと思っていたのですよ。相談したいことがあって連絡しようと思っていたのですが、来てくれるなんて驚いています」と話し掛けてくれました。そしてUさんから相談を聞かせてもらい、「今日の状況を確認してから対応するようにしましょう」と答えて依頼を聞かせてもらいました。
このように話をして思うことは、多くの人が困りごとを抱えているということです。「相談したいけれど相談する人がいない」ことや、「誰に言っていいのか分からない」ことがあります。上手く連携していけるように活動を続けたいと考えています。
先日、太田城の歴史を学びましたが、学びにご一緒した方からのメッセージが届きました。とても良いメッセージなので皆さんと共有したいと思います。
伊達宗弘翁の「天目庵」が南太田に存在していたことを、郷土史の専門家「田中敬忠」氏が記してくれていたことがわかり、A紀州徳川→B本居宣長・本居大平→C伊達宗弘(千広)→D陸奥宗光へとつながっていることが分かりました。
この中のAは紀州徳川(初代頼信。十代治宝)による文化の向上と国史の整理、復興の支援であり、Bは国史(日本書紀、古事記、源氏物語等)を本居宣長が整理・復興し、養子の大平に継承され、紀伊藩の国史(国文学)及び和学・道徳の教授として本居大平が藩士に講義したものです。
そしてCとして、本居大平の講義を若き紀伊藩士である伊達宗広が受講し、後に国学者と云われるほどの知識を得ています。
伊達宗広は実子の牛麿(宗光の幼年期名)に国学(和学)やあらゆる学問、そして武士の心得を伝授しています。現在のようなスパルタや詰め込み教育と違い、地に足が着いて落ち着いた「育て方」が陸奥宗光の基礎を作ったものではないかと感じます。
ですから紀州徳川の叡智の結集「国学(和学)」が、陸奥宗光の存在を生んだものと思います。南太田での「天目庵」は「和学 わかやま」(国学では固いイメージになるので)を発信した教育の聖地であったことを、地域興しで活かしてもらえれば幸いです。
以上のようなメッセージをいただきました。紀州徳川家から明治へと学問と人がつながっている歴史を端的に捉えています。歴史は時代の節目で切断されるものではなくて継続しているものだと改めて意識することができます。当時、紀州徳川家が古い象徴ではなく、明治時代においてもその精神は後に活躍する人の考え方、志の土台となっていたのです。
平成の時代に生きる私達も明治、大正そして遠くなっている昭和から続いているものを知識や行動の土台として、そこに平成の「現代」を積み重ねていくことが大事なことだと考えます。