活動報告・レポート
2018年2月22日(木)
県議会
県議会

平成30年2月県議会定例会が昨日、開会しました。昨日は一般質問の通告締切日だったので議長に一般質問をする旨の通告を行いました。質問項目は未確定ですが、今日現在、次の項目を予定しています。

(1)水素社会に向けた取り組みについて

(2)周遊観光の取り組みについて

(3)薬物乱用防止の取り組みについて

(4)スケボーの振興について

(5)和歌山城を更に観光資源として活用することについて

これから質問項目と内容を作成していくことにしています。僕の一般質問は3月6日の火曜日、午後2時からの予定です。

太田城
太田城の歴史

和歌山市太田地域と太田城の歴史について学びました。太田城の研究をしているFさんを訪ねて講義を受けました。太田城は豊臣秀吉の水攻めによって落とされたお城で現存していません。城址がないので、地元でも太田城があったことを知らない人がいるのはそのためです。太田城は東西280メートルから330メートルで南北240メートルから300メートルあったと推定されています。

太田城の歴史は紀州人の性質をよく表していると思います。また独立性が高く統治されることを嫌ったのか紀州の地侍や農民たちが環濠集落や城砦に立て籠もり、時代の覇者である豊臣秀吉が率いた10万人の大群に抵抗しました。天下人を自負していた秀吉が肝を冷やした想定外の出来事だったようです。

太田城の攻防戦の体験は、秀吉に兵農分離の必要性を痛感させたようです、太田城の水攻めから3年後に全国規模で実施された太閤検地と農民の刀狩という政策への動機づけになったのが太田城での抵抗にあったと説明をしてくれました。

太田城の歴史

それまでは比較的流動性のあった武士と百姓が分離し、職業が固定化されるようになったのはこの時の経験から来ているものだと言われています。この兵農分離政策は江戸時代になると更に強化され、職業は世襲制となっていったのです。

そして紀州の共和国意識とは、太田城攻防戦に象徴される紀州平民の心意気にあります。この時から35年後に紀州を統治することになった徳川頼宣をして、統治政策「地士制度」導入の必要性を痛感させたと推測されています。

天下人であっても簡単に折れない紀州人の気質が表れたのが太田城の攻防でした。

伊達宗広

陸奥宗光の父親が伊達宗広です。1861年6月から約9年間も田辺城近隣に幽閉されました。特赦された後、現在の和歌山市南太田で小庵「天目庵」を建て藩士たちに和歌や仏教を講じていました。その期間は1年と半年だとされています。

その後、1862年11月27日に脱藩して四条鴨川に滞在し、後に京都粟田口の京都学習院で教官となっています。

この時、坂本龍馬や木戸孝允などが伊達宗広の教えを乞うため門に出入りしています。

ですから坂本龍馬と陸奥宗光は神戸ではなく京都で出会っているのです。この時から師弟関係が続いていたということです。

この様子は「紀州今昔」という興味深い紀州の歴史を記した書籍に記されています。

伊達宗広が和歌山市南太田に居住し「天目庵」で藩士に学びの場を提供していた歴史があったことを知り、歴史の不思議さと楽しさを感じました。太田城の歴史と陸奥宗光の歴史が時代は違うけれど場所が交錯しているからです。歴史とは生き物ですから、歴史を知った人が歴史を語れる人になります。時代は違っても歴史上の人物が活動した場所をテーマにすれば、時間を超えた連動性のある物語として蘇ります。

伊達宗広の存在が陸奥宗光と坂本龍馬を結び付け、後の明治維新へと展開していくことになります。

参考までに陸奥宗光は伊達宗広の6子として1844年に生まれています。陸奥宗光の父親は和歌山市南太田を活動の舞台にしていた時期がありますが、これは地元でも知られていない事実です。今日、歴史の面白さを感じることが出来ました。

その他

待機児童と保育園の問題について現状を踏まえて話し合いました。和歌山市内では大きな問題になっていませんが、将来展望を含めて対策を話し合ったものです。