活動報告・レポート
2017年7月7日(金)
陸奥宗光講談会
陸奥宗光講談会
陸奥宗光講談会

陸奥宗光没後120年記念の講談会に参加しました。平成29年は陸奥宗光が没してから120年の年に当たります。このことを記念しての記念式典の一つが今日開催する「七夕講談会」です。

講談は、上方講談協会会長の旭堂南左衛門さんの「陸奥宗光の生涯 ―カミソリ大臣と呼ばれた男―」や旭堂南鷹さんの「坂本龍馬死す」です。講談を聞いたのは初めてでしたが、約2時間、最初から最後まで楽しむことが出来ました。会場にいた人も同じように思っていたように感じました。

さて講談では、陸奥宗光は15歳の頃、九度山町入郷で暮らしていたことを聞きました。ここで暮らしながら高野山無量光院を訪れ学問を習っていたことを知りました。才能を発揮した宗光は「ここで教えることはない。江戸に行きなさい」と後押しされたようです。

しかし江戸に行き学問をするために必要な資金がなく困っていたところ、岡家が宗光を資金面で支援してくれたのです。多分、宗光の才能を感じた岡家は、「このまま才能を埋もれさせてはいけない」と思い、今でいうスポンサーになったのだと思います。

陸奥宗光講談会

江戸に出た宗光は才能を発揮し、一級の人物と人脈を築いていくことになります。宗光の人生を思うと、才能も大切ですが優れた人脈はもっと大切だと思います。優れた人脈を築くために必要なことは、自らが優れた人物と出会えるような人物になることが必要です。

自分がたいしたことがないのに優れた人物と出会うことはありませんし、例え出会ったとしても付き合いが始まることはありません。人物は人物を知りますから、社会に出るためには一流の人との人脈を築けるだけの人物になる必要があります。

その後、宗光は政府で地位を築くことになりますが、肩書がついた時に九度山町入郷を訪ねることになります。そこで少年時代にお世話になった人のところを訪ねて、感謝の気持ちを伝えるのです。

今日の午前に聞いたことですが「偉くなればなるほど、腰を低くしなければならないのです」。宗光の姿勢はこの大切なことを表しています。

陸奥宗光講談会

ところで陸奥宗光がカミソリ大臣と呼ばれた理由があります。カミソリとは、即断即決ができた人だったからです。即断即決ができることで、切れ味が鋭いカミソリ大臣と呼ばれたのです。そして即断即決ができたのは、情報収集力があったからです。正確な情報をいち早く知ることができたことが即断即決できる土台となっていたのです。

カミソリ大臣の陰には情報収集力があって、正確な情報を得られるだけの優れた人脈があったと思います。

もうひとつ学んだことがあります。紀州藩から和歌山藩に変わる時、陸奥宗光が新政府と交渉したことで和歌山藩が廃藩置県を先導するばかりか、全国のモデルになったのです。

和歌山藩を幕府側と見做して壊すのではなくて、新政府として世界の先進モデルになるように仕向けたのは陸奥宗光の功績が大きかったようです。

まさに和歌山藩を救った人物であり、和歌山県を存続させた偉人だと言えます。もし陸奥宗光がいなければ和歌山藩は幕府側だと思われて、現在の和歌山県は存在していなかったという意見も聞きます。和歌山藩の生い立ちを知ると、故郷の誇りを感じることが出来ます。

陸奥宗光講談会

それにしても講談は私達をその物語の中に引き込む力を持っています。坂本龍馬が暗殺される場面は臨場感がありましたし、陸奥宗光の物語は今もこの時代に生きているように感じさせます。この続きをもっと聞きたい、続きはどうなんだという思いになります。

故郷を誇れる人物について講談してくれたこと。今後とも郷土の偉人を取り上げる方向性がある限り、観光や教育面から郷土の偉人の生きた証を伝えることに力を入れたいものです。

 
その他

講談会の後、懇親会を行いました。知人の紹介をしてくれたり、次回開催の若手後援会の話を交わしたりと楽しい時間となりました。遅くまでお付き合いをしてくれた皆さんに感謝しています。