ナームの会に参加しました。今回の講師は京都から来てくれた前田住職です。テーマは「大悲の心」で、その意味について説いてくれました。
「極楽浄土はあるかないか」と問われると「ある」という人と「ない」という人がいます。仏の道を歩いている人は「ある」と答え、科学者などは「ない」と答える傾向にあるようです。しかし「ある」か「ない」か、分からないものであれば、「なくてはならないもの」と思う方が心の安定につながります。世の中には「答えがある」ことと「答えがない」ものがあります。だから「答えを出さなければならない」と思うと苦しくなるので、「ないものがある」と思うことで追い込まれなくて済むことがあります。
そして多くのことは、時が解決してくれます。時が解決するとはおまかせすることで、おまかせする相手は、人や阿弥陀様、人知を超えた存在におまかせすることを言います。
つまり「あなたを信頼しているから」という潔さが、「時が解決してくれる」ために必要なことです。
「答えを出さなくても良いこと」と「おまかせする」ことを心掛けることで、来世は不安なところだと思う心を安定させることができます。恐れを抑え安心することが日常生活を安定させることができるのです。
ですから「人の死後は存在するか」というテーマに対しては「答えがない」ということです。阿弥陀様に仕える身の人が「答えがない」と答えると、「そんな答えもないのか」と不満に思う人がいます。しかしそう思う人に対しては「あなたが納得しないのであれば、この先、不安を抱えたまま生きることになります」と答えることになります。
繰り返しますが、この世の中には「答えられない」ということがあるのです。阿弥陀様に仕える身としては「不安を取り除くために説いているのだ」ということですから、答えられないことを追求するよりも、納得することが大事なことです。
不安な時も、恐れを抱いている時も、泣いている時も、阿弥陀様は大悲の心であなたを見守ってくれています。それは親縁という言葉で伝えることが出来ます。親は自分の子どもが何歳になっても心配していますし、可愛いと思っています。
親の心と阿弥陀様の心は同じなのです。思われているという気持ちがあれば、日常の不安は小さくなります。そうすると生かされていることに感謝の気持ちが生じてきます。
命が終わる瞬間も、阿弥陀様は親縁の気持ちで思ってくれているので、不安が少なく最後の時を迎えることが出来ると思うのです。
つまり誰かがあなたのことを思ってくれているなら、あなたの不安が小さくなり、感謝の気持ちが生じるのです。これが「大悲の心」であり、あなたはいつも思いやりの気持ちを持つ誰かに見守られていることを覚えていて欲しいのです。
「毒矢の例え」という話があります。
昔、毒矢に撃たれた人がいました。その人を助けるために周囲の人が毒矢を抜こうとしました。しかし毒矢に撃たれた人は「ちょっと待て。毒矢を抜く前に、誰が毒矢を放ったのか。どこから撃ったのか、狙った目的は何か、どんな矢だったのか、矢の色は、形は、どこに逃亡したのか」と質問攻めしてきました。犯人や動機を知りたい気持ちは分かりますが、先にすべきことは毒矢を抜き、治療して命を守ることです。緊急の時などは特に命を守るために先にすべきことがあるにも関わらず、後で調べたらよいことを、先にやって欲しいと思って注文することを「毒矢の例え」と言います。
「毒矢の例え」の話をすると、「そんな馬鹿な注文をつけない」と思いますが、自分がそんなことをしていると気付いていない人が多いのです。
「毒矢の例え」に陥らないためにも、「極楽浄土があるかないか」を思うよりも、「なくてはならないもの」と思い、日常の不安を消す方が良いのです。
昨年、黄綬褒章を受章した尾添信行さんの祝賀会が開催され、お祝いに駆けつけました。長年、建築設計管理業に専念し業界発展に尽くしてきた功績が評価された受章です。業界発展のために尽力してきた実績が評価されての受章を共にお祝いしました。
今回の受章を心からお祝いしています。
またゲストとしてウインズ平阪さんが駆けつけてくれ、尾添さんを称える歌を歌ってくれました。ウインズ平阪さんは舞台の上から僕を見つけてくれて、舞台と会場とで合図をしあいました。
そして「僕の大事な人がたくさん来てくれています。片桐さんも来てくれています。きっと僕を見守ってくれている人が、大切な人と今日、引き合わせてくれたものと思っています」と話してくれました。とても嬉しい言葉に感謝しています。
華やかで、賑やかで、嬉しい祝賀会に参加できたことを嬉しく思います。尾添さん、おめでとうございます。