海南市で開催された倫理法人会に出席しました。午前4時30分に起床して午前6時30分からの研修会に向かいました。思い返すと海南市の倫理法人会に出席するのは平成28年4月に講師を務めて以来となります。冬の朝の寒さと暗さを堪能しました。
意見交換の場では、「右肩上がりの時代は終わっている現実を直視しなければならない」ことや「これからの成長戦略はあり得ないのではないか」という意見が出されました。人口減少、高齢化社会が到来しているのだから、現状維持であれば良い方だと考えた経営戦略を検討することが現実との乖離が少ないという意見もありました。
和歌山県では長期総合計画を策定していますが、ここでは人口減少や市場の縮小を前提とした数字をベースにして和歌山県のあるべき姿を描こうとしています。
昨日、大政奉還150周年記念プロジェクトやスタンプラリーについて話し合いました。その時に坂本龍馬の手紙のことが話題に出ました。中でも亡くなる5日前に書いた手紙と亡くなる2日前に陸奥宗光に宛てた手紙のことが話題となりました。
亡くなる5日前に書いた手紙には「新国家」という言葉を使っているようですが、このことは平成29年1月13日付けの産経新聞に記事掲載されているので、以下、引用します。
慶応3(1867)年11月15日に暗殺された坂本龍馬が亡くなる5日前に書いた手紙が見つかり、高知県が13日、発表した。越前藩の重臣宛てで、新政府設立に向けた人材の派遣を求める内容。「新国家」という言葉を使って説得するなど、龍馬が新政府設立の根回しに奔走した姿がうかがえる貴重な史料という。
幕末関連の歴史史料を探していた県が見つけ、京都国立博物館などが筆跡や内容などから龍馬のものと断定した。
「一筆啓上仕候」で始まる手紙(縦16センチ、横92センチ)は11月10日の日付でその下に「龍馬」の署名もあり、大政奉還後の新政府の財政担当者として、越前藩士、三岡八郎(後の由利公正)を差し出してほしいと、同藩の重臣・中根雪江に懇願する内容。三岡の派遣について「急を要すること」とし「三岡の上京が一日先になったら新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまう」と訴えていた。
当時、龍馬は暗殺された京都の近江屋に滞在しており、手紙はここで書き上げ、使いの者が京都・二条城近くにあった越前藩邸を訪れていた中根に届けたとみられる。
三岡は明治天皇が新政府の基本姿勢を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画したことで知られており、財政政策にも携わるなど、新政府を支える人物となった。
龍馬は手紙を出す約1週間前、福井を訪れて中根に三岡の派遣を要請したが、前向きな返事をもらえなかったため、念押しの意味で、その後京都入りした中根に手紙を送ったとみられる。しかし、越前藩は、すぐに行動を起こさず、三岡の上京が実現したのは龍馬暗殺の1カ月後だった。その後、龍馬の手紙の封紙には、朱書きで「人に見せてはいけない」などとする付箋がつけられていた。
龍馬の手紙に詳しい京都国立博物館の宮川禎一・列品管理室長は「三岡の高い能力を見抜いていた龍馬の先見性を示す」とした上で、「『新国家』という表現は、他の手紙で見たことはなく、龍馬の国づくりにかける熱い思いを表すものだ」と話している。
坂本龍馬の書状の現代語訳は次の通り。
一筆啓上差し上げます。
このたび、越前の老侯(松平春嶽)がご上京になられたことは、千万の兵を得たような心持ちでございます。
先生(中根雪江)にも、諸事ご尽力くださったこととお察し申し上げます。
しかしながら、先頃直接申し上げておきました三岡八郎兄の上京、出仕の一件は急を要する事と思っておりますので、なにとぞ早々に(藩の)ご裁可が下りますよう願い奉ります。三岡兄の上京が一日先になったならば新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまうと考えられます。
ただ、ここのところにひたすらご尽力をお願いいたします。
坂本龍馬の思いが活き活きと伝わってきます。坂本龍馬と陸奥宗光が生きた時代と思いを大政奉還150周年記念プロジェクトで体感してもらおうと企画しているようなので、和歌山市もその思いを受け取りたいと思います。
和歌山市は陸奥宗光の故郷ですから、坂本龍馬の意志を受け継いだ人物の生きた街を多くの人に訪れて欲しいと願っています。
- 和歌山県内での再生可能エネルギーの計画について相談を受けました。和歌山県内の系統連携は厳しい状況になっています。新規に事業化を目指す場合、連携を考えて計画して欲しいと思います。
- 国が再生可能エネルギーの中で力を注いでいるバイオマス発電の現状について話を聞かせてもらいました。国内の森林資源だけでは燃料の確保が難しいのですが、輸入するにしても量が不足し始めているようです。
- 夕方からは三か所の懇親会にお誘いを受け参加してきました。