今日と明日の二日間、市内の幼保園の先生方と一緒に研修会に出掛けました。今朝は5時に起床して出発地に向かい、午前7時には和歌山市を出発し研修会予定場所に向かいました。参加してくれた皆さんの心配りと熱心さのお蔭で楽しい研修会になりました。
中でも園長先生の周囲への気配りには感動するほどでした。研修会が気持ちの良い空間になったのは園長先生の気配りに頼る部分が多く、一緒にいて学ぶことがたくさんありました。出過ぎることなく自然に気配りができる、とても素敵なことだと思います。
貴志川線の未来を"つくる"会の会長と貴志川線存続運動についての懐かしい話が蘇りました。
今から12年も前のことです。南海電鉄が貴志川線の廃線を発表したのです。貴志川線は慢性的な赤字路線のため経営判断で廃線することを決定したのです。廃線までに残された期間は僅かで、事業を引き継いでくれる事業者を見つけなければ貴志川線は廃線という事態になりました。貴志川線が廃線となれば、沿線の高校生や大阪に通学や通勤する大学生と会社員に大きな影響を及ぼします。
何としても存続させなければならないという思いで岡山電気軌道を訪ね「和歌山市のために貴志川線の経営をして欲しい」ことを伝えました。岡山電気軌道は岡山県の鉄道会社ですから和歌山市とはご縁はありません。しかし地方鉄道を経営している同社は、和歌山市を訪ねてくれたのです。貴志川線沿線の人が協力してくれるなら事業継承を検討してもらえることになりました。
その時、貴志川線の未来を"つくる"会を作り、沿線住民主体で存続運動をしてくれたのが濱口会長です。高校の校長先生を退任していた濱口さんは、存続は極めて厳しいと思われる状況の中、会長に就任してくれたのです。
廃線までの限られた時間の中、組織の拡大、沿線の盛り上げ、向陽高校などでの存続のための集会、NHK「難問解決!ご近所の底力」への出演など精力的に行動し、ついに岡山電気軌道の心を動かせたのです。
僕は当時、いち早く和歌山市議会議員として市議会本会議で「貴志川線の存続について」の一般質問を行いました。濱口会長とも連携し、存続のための方法を考え、当時の企画部長とも協議しながら存続に向けた活動を行いました。
方法論として、貴志川線が廃線となった場合の通勤による沿線道路の渋滞、自動車の利用による環境問題の惹起、高校生や大学生の通学が困難になること、そして地方都市にとってこれからの時代、公共鉄道は不可欠なものであることなどの理由から、和歌山市が補助制度を創設することになったのです。
岡山電気軌道が経営に乗り出してくれたとしても、直ぐに黒字化させることは困難です。
そのため経営を引き受けるに際して、和歌山県と和歌山市などの沿線市町に補助制度創設による支援を求めたのです。沿線住民の乗車や存続のための協力と行政からの補助制度の創設が存続のための必要条件でした。
困難に思えた二つの条件をクリアさせて、岡山電気軌道は和歌山市に本社を置く和歌山電鐵を作り、地元の鉄道会社として地元に根ざした企業として進出してくれたのです。それから廃線からの危機を脱して、存続のためのしくみづくりを始めたのです。早いもので貴志川線の廃線と存続に揺れ動いた時から12年が経過しました。
貴志川線への補助制度は10年の期限だったのですが、赤字幅は縮小したものの経営は赤字が続いていました。次の10年も存続させるためには、引き続いて向こう10年の行政からの補助制度が必要です。この交渉も成立させることができ、和歌山電鐵貴志川線は11年目を迎えた現在も、沿線住民に支持されながら走っています。
こうした現実があるのは貴志川線の未来を"つくる"会の濱口会長が、貴志川線がこれからも続くように継続して活動を行ってくれているからです。存続したから終わりではなく、鉄道会社に貴志川線をずっと継続してもらうための活動を続けているのです。
地元の皆さんと役割分担をしながら連携した活動が議員活動の原点です。大きな困難に立ち向かったことで得たものを今も持ち続けています。
地元の意見を聞きその意思を尊重すること、市民の声を議会に持ち込み市民の立場で議会において議論を交わすこと、必要な相手と直接会い話し合うなど行動することなど、議員にとって大切なことを学びました。
このことは県議会議員になった今も、議員活動の原点であると大切にしています。