父の三回忌の当日を迎えました。亡くなったのが平成26年10月16日でしたから、2年が経過しようとしています。法要は亡くなる日の少し前に行うのが通説だそうなので、一週間前の今日、三回忌を実施しました。昨夜は大雨だったので天候を心配しましたが、今朝起きると晴天で暑いぐらいだったのでホッとしました。お寺からお墓に向かうために少し急な階段を上る必要があり、年配の親戚の方々が上る時に滑らないだろうかと思っていたからです。
さて正午からの法要のため、午前11時35分を目途に毘沙門寺に到着しました。既に親戚の方々が集まってくれていて、賑やかな雰囲気になっていました。人が集まるだけでその場は賑やかになりますから、人に集まってもらえることはとても大事だと思います。イベントは人が集まってくれるだけで80パーセントは成功したようなものだと聞くことがありますが、人が集まってくれることで場はしっかりとしたものになります。
さて12時から30分以上、お経を唱えてくれて法要を終えました。「もう2年が経過しているんだな」と時の速さを思いながら、「あの時も現在につながっている」と思いました。
決してつながりが途絶えているのではなくて、見守ってくれていることを感じました。心の中にいるということは、やはり魂のレベルではつながっているのです。お経にはそんなことを感じさせる力が宿っていると思いました。
その後、お墓にお参りをしました。昨日、掃除とお花を供えていたので、一際、目立っているように感じました。きれいな場所は目立ちますし、お花はその場を引き立たせてくれます。親戚の方々がお参りにきてくれたので、父はきっと喜んでいると思います。少し冷たい石の下にいることを寂しく思いますが、「千の風のように」、ここにいないで大空から私達を見ているかも知れません。
この次に親戚が集まるのは七回忌ですから4年先のことになります。今日感じたことですが、法要はお祭りのようなもので集まっている時は賑やかですが、終わってから一人、またひとりと帰っていくと寂しくなるものです。
お墓参りをした後、万葉薪能会場に行ったことから、その後直ぐには実家には戻れませんでした。夜、実家の母を訪ねたところ、一人だったので寂しそうに感じました。「お祭りの後の寂しさのようだ」とこの時、感じました。残された人の寂しさを表現することはできませんが、一人でいる時の表情がその思いを物語ってくれます。僕が帰った後は「もっと寂しくなるのかな」と思うと、少し寂しくなりました。
楽しいこと、賑やかなひと時、寂しさなどを感じながら人は成長していくように感じます。際立った感情は竹の節のような役割を果たしていて、そこから上に伸びる強さを与えてくれるようです。
現在、午後12時、三回忌の法要から12時間が経過しています。正午は夏のように暑かったのですが、現在体を取り巻く空気を冷たく感じています。三回忌法要からもう12時間が経過していることを実感します。人の心にさざ波を立てる、このようにして時は過ぎていくのです。
第18回目となる万葉薪能が開催されました。午後4時からの開場に間に合うように会場に到着しました。今年も座った時にお尻が冷えないように座布団をお客さんにお渡しすることを担当しました。開場前からお客さんが並んでくれていたので、心を込めて「こんにちは」、「ようこそいらっしゃいませ」と声を掛けてお迎えしました。
今では万葉薪能は、和歌の浦の10月の文化イベントとしてすっかり定着しています。お座布団を配布している時に「和歌山市の文化に親しみたいと思います」と声を掛けてくれたお客さんがいました。
この一言が万葉薪能の素晴らしさを感じさせてくれました。「和歌の浦で薪能を開催していることは凄いことなんだ」、「和歌の浦で薪能を鑑賞できることは凄いことなんだ」と思いました。
もう一人、京都から来てくれた方は「この薪能には一流の先生が出演していますね。こんな先生方に出演してもらえるなんて凄いことですよ」、そして「子ども達が先生方の演奏している前で踊れることは凄い体験です。もし私がこの先生方に来てもらって、舞台で踊るとすればどれだけお金がいるか分かりません」と笑いながら話してくれました。
この一言で、この万葉薪能の素晴らしさ、凄さが分かってもらえると思います。そんな言葉が相応しい万葉薪能の舞台でした。和歌の浦の屋外ステージで薪能を鑑賞できる。こんな贅沢な秋の日は少ないと思います。そんな贅沢なイベントが毎年、当たり前のように繰り返されている。凄いことを凄いと思わせないで実施していることは凄いことだと思います。