活動報告・レポート
2016年7月9日(土)
惚国
惚国

パンフレット「雑賀の惚国、太田城編」を読みました。平成22年に発行されたパンフレットですが、在庫がなくなり入手できないでいました。平成28年6月県議会の一般質問で太田城を取り上げたことで報告に行ったところ、このパンフレットが再発行されていたことを知りました。

太田城を研究する方々によって再発行されたものであり、太田城の歴史と位置を知るための資料となっています。戦国時代の紀州は「惚国」と呼ばれた特殊な地域であり、難攻不落の都市として戦国時代の雄として君臨していたことが分かります。

ルイス・フロイスの記録によると「和泉の国の彼方に、国をあげて悪魔を崇拝する紀の国なる一国がある。そこには宗教団体が4つ5つあり、そのおのおのが大いなる共和国的存在で、いかなる戦争によってもこの信仰を滅ぼすことができなかったのみか、ますます大勢の巡礼が絶えずその国に参詣していた。

その第4の国、雑賀の地は、二方を海に囲まれ、他方は水量の豊富な川と険峻な山岳がそびえた難攻不落の共和国であり、その住民たちはヨーロッパ風に言うなら富裕な農民だった」と記されています。

日本中世最後の共和国が紀の国だったのです。ピラミッド型の大名が支配する国と異なり、各郷、各組が代表視者を出して神前で合議をする宗教的自治の国だったようで、この国のことを惚国と呼んだのです。惚国とは、みんなの国という意味だそうです。

しかし1585年、豊臣秀吉が天下統一を目指して紀州攻めを行います。太田城の水攻めにより太田左近が降服し、紀の国は豊臣秀吉の支配下に置かれることになるのです。時代は戦国時代の終わりを告げ、豊臣秀吉が天下統一を果たし近世へと時代は変化を遂げていくことになります。

豊臣秀吉の圧倒的な戦力によって惚国は滅亡することになりますが、「雑賀の惚国、太田城編」によるとそれだけが原因ではないと分析しています。豊臣秀吉軍に敗北した原因は、次のようなものがあったと記されています。

  1. 鉄砲や海軍などの過重な軍備負担による家計圧迫。
  2. 惚の意思統一や執行に時間がかかりすぎたこと。
  3. 1498年の大地震によって紀の川の変流により、現在の和歌川の耕地開発を巡って雑賀と太田が対立して結束にヒビが入ったこと。

これらの原因によってわが国最後の惚国は滅亡に向かったのです。

そして豊臣秀吉は弟の豊臣秀長に命じて和歌山城を築城し、一国一城制により縦社会を作ります。和歌山という地名はこの時に名付けられたものと言われています。紀の国から和歌山へと中世から近世へと時代は向かうことになりました。

こんな惚国の跡地が太田城址ですが、太田城に関して現存しているものは極めて少なくなっています。JR和歌山駅東口辺りの地域が太田城址ですが、この付近に歴史を感じるものはなく、埋もれた歴史となっていました。

しかし地元の皆さんの活動や紀州経済史文化史研究所の調査と研究により、太田城址の歴史が少しずつですが知られるようになってきました。そこに「雑賀の惚国、太田城編」が再発行されたことで、太田城の歴史を知り、太田城址のあった場所を特定することで観光地として活用を図れる準備が整いました。

歴史のロマンを感じる惚国という言葉が、戦国時代の紀の国の歴史の中にあります。和歌山県では「戦国わかやま」のキャンペーンを実施中ですが、ここに太田城の歴史も取り上げていく予定なので、脚光を浴びることを期待しています。