和歌山ゴールドライオンズクラブのメンバーだった方が亡くなりまた。余りにも突然の死を現実のものだとは思えません。参列した多くの皆さんと、これと同じ会話を交わしました。3月末の土曜日と日曜日に一泊二日の研修会に行ったばかりで、その時は元気だったので信じられない気持ちです。
知人に聞いたところ、研修会から戻った翌日あたりから「右肩が痛くて上がらない」と話していたようですが、それが原因で亡くなるとは本人も私達も想像もしていないことでした。死因は胸から肩のあたりの細胞が壊死していたことによるものだそうです。常に健康に気を使っていた方だけに「どうして気付かなかったのだろう」と思いますが、肩の周辺が痛いことから整形外科に診てもらっていたようで、細胞の壊死とは分からなかったようです。健康に留意していただけに、とても残念に思います。
葬儀の参列とお手伝いをしたのですが、参列している人を見て「この世に残せるものは人に与えたものだけだ」と思いました。自分で集めたものや大切にしていたものでもあの世に持って行くことは出来ません。この世に残しても本人以外はその大切なモノの価値が分からなければ、残された人に処分されることになります。
ですから人に与えたものが、故人の思い出として、大切なモノとしてこの世に残るモノなのです。大切に持っているモノは残らなくて、人に与えたモノが残るのです。価値観を転換する必要があります。
同じように人に親切にしたことや、してくれた行為にご恩を感じてくれた人が参列してくれます。やはり自分のことではなく人に親切にすることが、お別れの時に訪れてくれる人になります。
人と人同士の付き合いをしていることや、社会貢献をしていることがこの世を去る時に大事なことだったと分かります。自分のことだけを考えて行動している人は寂しい去り方をすることになると思いました。
参列者の中には、こばと学園の先生方やライオンズクラブのメンバーがいましたが、仕事や利害関係のない心の付き合いをしていた人がお別れに集まってくれていました。人とした大切なことに気付かせてもらいました。
社会生活をしている私達は、お世話になっている社会に対して自分でできる貢献活動を行うべきであり、周囲の人に対しては明るく親切に対応することが何よりも大切なことなのです。この世に残せるものは与えたものであり思い出ですが、あの世に持って行けるものがあるとすれば、思い出とやさしさだと思います。
思い出は、笑顔になった出来事、本気で取り組んだこと、旅行で見た風景や人との出会いなどで感動したこと、そんなものを持って行けると思うのです。形のないものを持って行けるような気がしています。形あるモノは持って行けませんが、形のないモノは心の中にしまって持って行ける。参列していた方の姿を見て、そんな気がしました。
そして死に出会うことは、生きることを意識させてくれます。生きていることを意識するとは、生きている時間をもっと大切にしなければならないということです。誰でも知っていることですが、この瞬間、この一日は、生涯でたった一度だけ訪れている宝物のような時なのです。この瞬間は二度と訪れてくれませんし、明日になって今日のこの時に戻ることもできません。
昨日まで元気にしていたメンバーの死に際して、密度の濃い時間を感じることができました。この濃厚な時間を感じながら過ごすことができれば、今日は充実した生き方ができている感じることができます。何もないと思うような平凡な一日を濃密な時間にすることができるなら、それは幸せなことです。
さらっと流れるような時間も素敵ですが、濃厚な時間を過ごすことも素敵です。生きていることは時間旅行を楽しむようなものだと思います。