今朝から事務所では懇談のため数人の皆さんが来てくれました。また「議会報告書を配布するから」と言って来てくれたNさんや、打ち合わせのために来てくれたTさんを始めとする皆さんにお礼申し上げます。日曜日の午前にも関わらず訪問してもらったことに感謝しています。
地域の安全対策や南海トラフの大地震への備えなどについて意見交換を行いました。道路の安全対策は運転者の視点ではなくて歩行者の視点で見ることが大切です。生活道路では歩行者の視点で見るのと運転者の視点で見るのとでは見え方が違いますから、安全の認識も違います。歩行者の視点から、安全を確保するために必要な対策を聞かせてもらいました。
また3.11から5年が経過していることから防災意識が薄らいでいることの指摘がありました。あの時に感じた自らの命は自分で守るという意識が、「大丈夫だろう」という意識に変わっているところも感じます。3.11特集を見た時、東北の被災地の方々も「私達でもあの時に感じた危機意識が薄くなってきている。将来再びあのような津波が到来した場合、この地域の人は同じことを繰り返してしまうことになりそうに思います。何か形にして残さなければいけないと思います」という主旨のコメントがありましたが、風化してしまうことが悲劇を繰り返す要因になります。
日常から災害に備えようという意識を持ち、また3.11の歴史を形あるものにして後世に伝えることが大切だと感じました。
講演活動のため全国を訪問している方から「和歌山県にはエネルギーが少ない」という話を聞かせてもらいました。講演会を終えて空いた時間で和歌山市内のスポットを訪れたようですが、「どこの都市に行っても感じるエネルギーがまとわりついてくること」がなかったそうです。
コメントを続けます。「初めて和歌山市を訪れて、とても良い場所だと思いました。この場所ならエネルギーが満ちている筈なのですが何故か感じられないのです。それが不思議でなりませなん。どうして和歌山市にはエネルギーが足りないのか教えて下さい」と質問があったほどです。
古代より、和歌山県は神が宿る場所と言われてきました。自然信仰の地でありエネルギーの満ちた場所であったことから熊野三山への熊野詣が盛んとなり、神社も数多く存在しています。そんな神の宿る場所である和歌山県にエネルギーが足りないとは信じられないのですが、「エネルギーが抜けて行っている感じがあります」ということなので、満ちていたエネルギーが「逃げ出していくような感覚なのかな」と思いました。場所が持つエネルギーが抜け出す感覚とは、そこを疎かにしているからだと思います。自然を大切にしていないことや人が自然信仰を忘れ始めていること、またはまちの活気といったものが欠け始めていることから、「エネルギーが足りない」と感じたのかも知れません。
ただ「エネルギーが抜け始めている」感覚は心配があります。人やまちからエネルギーが欠け始めていることや、地域の活力が少なくなっていることを示しているようにも思います。高いエネルギーを有しているところに人は集まります。高いエネルギーを持った人は高いエネルギーの持つ場所に移動します。エネルギーは引き合いますから、同じようなエネルギーレベルの人が集まります。
和歌山県のエネルギーレベルが低下しているなら、高いエネルギーを持っている人も県外に出て行くことにつながるように感じます。
県外の人の視点は大切です。全国の都市と比較して、歴史上においても地理的にもエネルギーが満ちている筈の和歌山県にエネルギーが不足しているという指摘は初めていただきました。スピリチュアルな感覚ですが、和歌山県の現状を表しているように思えます。
物理的な面での活性化は政策として必要ですが、内面から和歌山県を見ても面白いのかなと思いました。視点を変えると違う和歌山県の姿を感じるかも知れません。
「和歌山県にエネルギーが少ないのは何故でしょうか」という質問に対しての答えを考えることも楽しいように思います。まちづくりの面、人の交流の面、精神的な面などから考えてみるのも学習になります。