活動報告・レポート
2016年2月17日(水)
静岡県地震防災センター
静岡県地震防災センター
静岡県地震防災センター

議会運営委員会として静岡県地震防災センターの視察を行いました。和歌山県では南海トラフの巨大地震に備えた取り組みを行っているところであり、津波による犠牲者ゼロを目指した新政策も議論を行っていますが、地震防災対策の先進県である静岡県の中核を担っている同センターを訪れ視察と意見交換を行いました。

静岡県では昭和54年から東海地震対策への取り組みを行っています。これまでに東海地震対策に費やした予算は約2兆円だと伺いました。36年間もかかって、ようやく県有施設の耐震補強が完成し、小中学校の耐震補強を終えることができたことを知りました。巨大地震対策には大規模な予算と長い時間を要することが身を持って感じ取ることができました。

静岡県地震防災センター

それでも「東海地震対策は、まだまだこれからも必要です」と話してくれたように、安全確保のための取り組みに終わりはありません。静岡県の特徴の一つは海岸線が長いことがあり、約500kmの内、約280kmの防潮堤が必要で、現在、約250kmの工事が完了しているところです。また防潮堤のかさ上げも必要な個所があり、一度完成させた防潮堤でも津波高の見直しによって追加工事が必要になるなど、状況変化への対応も県としての役割となります。

もう一つ、家屋の耐震補強ですが進捗していないことの理由を教えてくれました。空き家が増えていることが原因だそうです。耐震補強を打ち出した当初、空き家問題は社会問題になっていませんでした。住宅の耐震補強は県や市の補助制度である程度進むと期待していたのですが、静岡県でも空き家が増加していることから放置されたままになっています。誰も住んでいない家屋を耐震化する人は少ないため、数字として耐震補強率は進んでいないことになっています。社会問題としての空き家の耐震化、または取り壊しをどう進めるのかが新たな課題となっているようです。和歌山県でも空き家が増えていることから、防災対策として考えるべき課題だと感じています。

もう一つ驚いたことがあります。富士山が活火山であり、宝永の大地震の時に火山が噴火してから現在まで噴火していないことから、噴火への対応も必要な時期に差し掛かっているということです。富士山が噴火するかも知れないと報道で聞くことがありますが、実際に対策を講じられていることを聞き驚きました。

日本一の富士山が噴火するとは思えませんが、地元の県として万が一に備えていることを知り、防災対策として考えるべきすそ野は限りないと感じています。

静岡県地震防災センター

また静岡県では人材育成として防災士という資格制度を設け、毎年のように養成を行い、地域の防災リーダーとしての役割を担ってもらっているようです。平成8年度から平成27年度までに2,253人の防災士を知事が認定し、非常時には地域で活動する体制を整えています。非常時に行政だけでは対応仕切れないという課題があり、自助と共助の精神と行動が必要とされています。自主防災組織の結成や自治会がその活動の主体となりますが、そこに防災リーダーの存在は不可欠です。

静岡県ではそんな地域の防災リーダーの養成を続けてきました。そのすそ野が広がり、地域に根を張ったものに成長していることを感じました。防災対策は早期に完成させることはできません。長い視点での対策を考え、毎年のように防災対策を担う人材を育成することが大事なことです。

防災先進県である静岡県で学ぶ機会を得たことに感謝しています。和歌山県の防災対策に反映できるように取り組みたいと考えています。

海難1890
海難1890

和歌山市に戻ってからシルバーユニオン笑の会の研修会に参加しました。研修会のテーマは「海難1890に携わって」で、エルトゥールル号の事件の映画化に尽力してきた西廣さんが講演をしてくれました。西廣さんを始め多くの方の行動と熱意が「海難1890」という映画の形を残してくれました。和歌山県の誇るべき出来事で、後世にまで伝えるべき物語が私達の世代で映画になり、トルコと日本を結ぶ物語を継承していく手段を得ることができました。

そしてエルトゥールル号が串本沖で遭難した時に助けた村民は、わずか60人だったことを知りました。たった60人が遭難した乗組員を嵐の中救助、負傷者の介抱し命を助けたのです。60人の村ですから直ぐに食料は底をつき、自分達の食べるために蓄えていた食料をトルコの乗組員に提供したのです。ここに和歌山県民の心があり、これは今に伝わる心でもあります。

海難1890

時を超えて1985年3月、イラン・イラク戦争の時、テヘラン空港からトルコ航空で救助された日本人の一人に沼田さんがいました。テヘラン空港を飛び立ったのは攻撃開始の3時間前でした。飛行機の中で沼田さん達、救助された日本人は生死の境にいたことを感じ、「イラク軍から攻撃されないだろうか」と生きる望みを託していたのです。そして攻撃開始の2時間前、トルコ航空機内でアナウンスが流れました。

「ようこそトルコへ」。このアナウンスは乗客の生きることを確定させたアナウンスだったのです。

沼田さんは串本町の人達が1985年のテヘラン空港に取り残された日本人の命を救ってくれたことに感謝し、串本町に寄付金を届けたのは後のことです。串本町の職員さんは当初、「どうして関東の人が串本町に寄付してくれたのだろう」と思ったのですが、これが遠い記憶であるエルトゥールル号事件を思い出させてくれることになったのです。

海難1890

歴史の中に閉じ込められていたエルトゥールル号事件とイラン・イラク戦争におけるトルコ航空機による日本人救助の二つの物語がつながっていくことになったのです。

人にとって最大の罪は忘恩だそうですが、トルコは日本人の御恩を、日本はトルコ人の御恩を忘れてはならないのです。

シルバーユニオン笑の会の研修会は、和歌山県の誇りを感じるものとなりました。温かい気持ちになって会場を後にしました。

海難1890