白血病と闘っていたIさんが帰らぬ人となりました。突然のご不幸に言葉を失いましたが、今はただ心からご冥福をお祈りしています。東京オリンピックを見に行くことを目標として闘ってきただけに目標を達成できずにとても残念です。「絶対に負けないから」、「みんなでオリンピックに行きたいから」の言葉を励みとして懸命の闘いでしたが、昨日、旅立たれました。
Iさんは部下を引っ張っていくリーダーシップがあり、明るくてユーモアがあり、いつも話の中心にいる存在でした。現代のリーダーは明るいことと話しやすいことが必要条件だと思いますが、正にリーダーの資質を持った方でした。
今でも組織のリーダーをイメージするならIさんだと思っていますから、大きな存在を失ったことを残念に思います。これからも後輩である私達を見守り、向こう側からリーダー論を伝えてくれると嬉しく思います。
今日のお別れに際して心から感謝の言葉を伝えます。「ありがとうございました」。
ニューヨークのブロードウェイは世界の交差点であり、ミュージカルの聖地です。この中にオフ・ブロードウェイがあり、有名な劇場が「LA・MAMA」です。オフ・ブロードウェイができたのは、この「LA・MAMA」が開設された1961年のことだそうです。
設立者はエレン・スチュワートさんという黒人女性で、演劇の世界で知らない人はいない存在です。ただ残念なことに2011年1月に亡くなられています。
本日、「LA・MAMA」で仕事をしている一人の日本人が事務所を訪ねてくれました。彼女は24歳の時、自分のやりたいことを求めてブロードウェイに向かい、偶然、立ち寄った「LA・MAMA」でエレン・スチュワートと会いました。何も持たなかった、そして芸術的なことを何もできなかった彼女は、熱意だけを持ち合わせていたので、「ここで働かせて下さい」とエレンに頼み込み、「LA・MAMA」で働くようになったのです。最初は清掃や片付けの仕事を与えられるだけでしたが、熱意とやる気が評価され、やがて舞台に関係する仕事を与えられるようになりました。後に伝説となるエレン・スチュワートとの出会いが一人の日本人の運命を変えたのです。それから今日まで長い年月が経過しています。
さて1960年代当時、才能があってもマイノリティはブロードウェイの舞台に立つことができませんでした。黒人、アジア人など白人以外の人種は栄光のブロードウェイの舞台に立てなかったのです。
そこでマイノリティでも舞台に立てるようにと「LA・MAMA」を設立し、誰でも舞台に立てるようにしたのです。ここには若き日のロバート・デ・ニーロやアル・パチーノ、ベッド・ミドラーなど後に名を残す人たちが舞台に立っています。発表の機会に恵まれない若い才能に舞台に立つ機会を与えることを役割と考え、やりたい人達に表現する場を提供したのです。若い人達がお金のことを気にしないで舞台に立てる機会を得られるようにしたのです。それがオフ・ブロードウェイ誕生のきっかけですし、エレン・スチュワートがいなければ、オフ・ブロードウェイも若い才能が花開く舞台も誕生していなかったかも知れません。
「LA・MAMA」ではこれまで3,500を超えるミュージカルなどの公演が行われ、今も若い人達が新作を引っ提げて舞台に立ち続けています。
ここでは「オープン・ドア・ポリシー」という、やりたい人には機会を与える舞台を整えているのです。機会こそエネルギーを生み出す原動力になりますし、新しく生み出されるエネルギーが社会を創っていくのです。
エレンの口癖は「人とのご縁を大切にしなさい」だそうです。ご縁が仕事を与えてくれますし、行動するためのエネルギーに変わっていくからです。
彼女は今もエレンの言葉を信じ、そのことを実践しています。2015年、玉川大学でインターンシップ・プログラムを行い、大学と参加者から好評を得ています。
彼女は「日本人としてブロードウェイの芸術を日本に伝えたいと思うようになりました。そのことがエレンが私に託してくれた役割だと思うのです」と話してくれました。和歌山県には自然と言う優れたリソースがあり、文化と観光をくっつけることで和歌山県は活力を持ち始めると話してくれました。
「こんな美しいリソースがある県は他にはありません。活かさなければもったいないと思います。ブロードウェイの芸術と文化、一流の人物と和歌山県が交流できれば何かを誕生させることができるので素晴らしいと思います」と輝く目で話してくれました。
若い才能は「LA・MAMAだったら何でもできるぞ」と話しているようです。それは若き日のロバート・デ・ニーロやアル・パチーノにも無名の下積み時代があり、ここから輝いた事実がそのことを語ってくれています。
あの「LA・MAMA」と和歌山県が結ばれることは夢のようですが、新春に大きな夢が駆け込んできてくれました。
平成28年最初のナームの会に参加しました。若い僧侶の卓話を聞くことを目的とした会ですが、毎年1月は阿弥陀寺の高木歓恒住職が講師を務めてくれます。高木住職のファンの僕としては、毎年楽しみにしている新春のお年玉のようなナームの会なのです。今回は「信仰は危ない―されど信仰―」をテーマに話を進めてくれました。
信仰は信じることですから、人は何かを信じると心は決して変わらないほど強くなります。変わらないことが信仰ですが、変わらないことは危険な側面があります。人や社会が安定するのは変わり続けているからです。変わらなければ社会に適合できませんから、進化の道を辿ることはできません。変わり続けることが安定ですから、変わらないことは危険だと言う話は理解できます。
そこで「信仰と道理と違背することあらば、信仰を捨てて道理を取るべし。なぜならば真の信仰と道理は一つに帰着する」という、明治時代に活躍した清沢満之氏の言葉を説明してくれました。信仰は大切ですが変わらないことは危険です。ですから信仰と道理との間で悩むことがあれば、道理を優先させるべきだと言う教えです。結果として正しい信仰と道理は同じところに行きつきますから、道理を選択してよいと言うことです。
また「本当のご利益とは、苦が苦の状態のまま、苦でなくなることである」という言葉の説明をしてくれました。苦とは思い通りにならない状態のことで、思い通りにならないと、心の中は怒りや恨みに発展していきます。その結果、うまく行かないことを他人の責任にすることとなります。「自分は決して悪くない、悪いのはあの人だ」と思うことで、他人を傷つけますし、自分の信頼を失わせることになります。
全てを人の責任にすることなく、全てを人に任せることなく、全ての出来事にお陰様での精神でいることが心を浄化していくことになるのです。
全てのことに通じますが、「喜べば 喜びごとが 喜んで 喜びつれて 喜びに来る」のです。喜びが喜びの連鎖となりますから、最初に喜びから入ることが生き方の、そして日々の生活の基本としたいものです。
最後に、「人間は、いくら知識があっても、学問があっても、やさしい心がなければ、立派な人間とは言えない。やさしい心とは、感じることである」という小林秀雄氏の言葉を伝えてくれました。分かりにくいのは「やさしい心を感じること」です。
やさしい心を感じるとは、他人の痛みや悲しみ、苦しみを同体大悲と受け止めて、共に泣き、共に喜べる人の心のことだと話してくれました。人の心を感じることができて初めて立派な人となるのです。立派な人に到達する道を示してくれたので、到達できることが可能となりますが、これは遠くて長い道のりになります。人生は立派な人を目指す旅のように思います。この人生の旅は心を磨くための旅だといえます。
貴重な教えをいただいた高木歓恒住職に感謝しています。新春に心が温まりました。ありがとうございます。
- 午後6時からは和歌山市内で開催された新年会に参加しました。笑顔で始まり笑顔で終えることかできた新年会となりました。主催者から「これだけ多くの人が参加してくれたことで今年の活動に自信が持てました。来年も同じように開催したいと思います」と話してくれました。楽しい時間を共有できたことに感謝しています。
- 飲食店経営者との懇談の中で「勇気、決断、実行力を座右の銘として生きています」と話してくれました。経営にでも人生にでも成功に通じる言葉だと思います。経験者の言葉を受け取ることは、経験から得た財産を得ることになります。