和歌山城の歴史について学芸員の方から丁寧に説明してもらいました。要件があり和歌山城を訪問した時、「是非、和歌山城の歴史を説明したいので聞いて下さい」と案内をいただき、お忙しい中だったと思いますが案内していただきました。
説明を聞いたことから和歌山城についての知識が増えました。江戸時代の紀州の領地は今の和歌山県と三重県の松坂市辺りまであったようです。領土が広かったのは、当時の藩主が駿府の国から国替えをする時、石高に違いがあったことから、格落ちにならないよう同程度まで引き上げたようです。浅野幸長が紀伊国を治めていた当時の石高は37万6千石で、徳川家から徳川頼宣が紀伊国に入った時に伊勢国の一部を拝領して55万5千石になったようです。
こうして紀伊国の領土が三重県まで広がりました。このことは別の意味も合わせ持っています。この当時の紀伊国は紀伊半島の海岸全てを領地に持つことになりました。江戸時代は海路が物流などの移動手段でもあり、海が重要な位置を占めていました。紀伊国が紀伊半島の沿岸を領地としたことから海路を支配したことになります。江戸と大坂を行き来する要所が紀伊国だった訳です。ですから紀伊国は御三家になるべくしてなった要所だったことがわかります。交通の要所がある場所は人が行き来するので栄えることは歴史が示しています。紀伊国は海路が交通手段であった時代においての要所であり、和歌山市は現在のイメージとは全く違う地域だったようです。
このように江戸時代の紀伊国は大きな都市であり、和歌山城下には数万人が生活をしていました。和歌山市が大都市であったことは、明治維新直後の都市ランクで人口が全国で8位に位置付けられていたことからも分かります。和歌山市は現在のような地方都市ではなく交通の要所に位置し、支配する層にとって抑えるべき大都市だったのです。それが紀州御三家として栄えた理由だったのです。
そして紀伊国は豊臣秀吉が支配した時代と、それ以前は全く違う都市機能を持っていました。豊臣秀吉以前は主に紀州雑賀が支配していたのですが、その気風は自主自立でした。支配者からの押さえつけではなくて自分たちが自治する住民自治の風土があったのです。武士が支配する時代において珍しい風土を有していて、その気風が今日の和歌山県民に継承されています。和歌山県民は自主自立の精神を有していることから、行政にとって見れば「まとまりにくい」風土となるのです。体に刷り込まれた伝統、DNAとは、後々まで受け継がれていく凄いものだと感じます。
そして和歌山城に視点を向けると、大政奉還以降、紀州徳川家は和歌山城を退去することになり、明治政府直轄のお城となりました。主のいない家屋が廃れていくのと同じように、和歌山城も廃れていったようです。明治政府は戦争に役立つ天守閣の部分を維持するように努めましたが、生活に居する部分は人が住まなくなったけれども放置したままにしておきました。自然と建物は荒廃し戦火を待たずして天守閣以外の部分は朽ちていったのです。当時の和歌山城が現存すれば、威厳のある凄い価値を持っていたと思いますが、人も建築物など人工のものは歴史の流れの中で生かされている運命からすると、それは自然な流れだったのです。
和歌山城を知るということは、当時の人々の生き方や生活環境、そして都市としての位置づけなどを知るということです。和歌山県は江戸時代の交通の要所であり、支配層が必要とする大都市だったのです。明治時代においてもその地位でいましたが、明治維新による体制の変化と、海路から陸路へと変わる時代の流れの中で次第にその地位が低下していったのです。和歌山城の歴史から見える歴史の動きがあります。
中小企業に対して融資に関する依頼を行いました。日頃から和歌山市内で事業を行っている事業者の資金需要に対応してくれることを依頼していますが、やはり金融機関が金融面から地元企業を支えてくれることが地域にとって必要なことです。それぞれの企業の事業計画に基づいた対応を依頼しました。
- 枝垂れ桜の除幕式に関しての打ち合わせを行いました。和歌山城の協力を得て式典を行うことになりました。この枝垂れ桜は、来春には三分程度桜の花を咲かせてくれることになります。その翌年からは満開の花を咲かせ、私たちを楽しませてくれることになります。その最初に携われていることは嬉しいことです。
- 年末恒例のことですが、作業所の皆さんが作っている製品の販売所にお邪魔しました。一所懸命に作った製品からは命の輝きが見えるようです。手作りの温もりのあるものが皆さんに行き届くことを願っています。
- 「片桐さんの様子はテレビで拝見しています。一般質問の様子はいつも観ていますし発言内容も知っていますよ」という話を聞かせてもらいました。関心を持ってくれていることに感謝しています。