活動報告・レポート
2015年8月13日(木)
初盆

初盆にお伺いすると思い出話を聞くことができます。故人の無念さや最期まで生きようとした姿勢に感動させられます。人は生きようとした最期の瞬間を、残された人にプレゼントしていることを知ることができます。誰でも、自分がこの世に残す最後のメッセージは「生きること」だけです。

Sさん。昨年の夏にがん治療を始め今年最初には治癒したように思っていました。Sさんに会うと「医者もびっくりしているようで、回復してもう大丈夫です」と話してくれたことを思い出します。奥さんに聞くと、実際は「回復ではなく三か月だと宣告されていたので、あの時、本人の希望を聞いてくれて自宅に戻れたのです」と話してくれました。

余命三か月と家族が宣告されていたのです。本人は強がっていても精神的に弱いので、回復に向かっていると伝えていたようなのです。

平成27年4月の統一地方選挙の前にSさんはお亡くなりになりました。奥さんはSさんの死後、後援会カードが机から出てきたことを知り「主人は最期まで片桐さんを応援していました。私にも子どもにも話していました」と、改めて話してくれました。

Sさんは最期の入院の時、医師に対して「絶対に治るから治療を続けて欲しい」と伝えて、苦しい抗ガン治療を続けていたそうです。しかし、ある時「しんどいから、もう無理だわ。もう良いから」と家族に話したそうです。「あれだけ耐えてきた人が治療を諦めたのですから、相当しんどかったと思います」、そして「その午後、意識を失い最期を迎えました」と話してくれました。せめてもの救いは「苦しまなかったこと」だそうです。

一通り、最期の時を迎えた様子を伝えてくれた後、「片桐さんが来てくれるなんて、主人はとても喜んでいると思います。そして私にとっても今日が最高の一日になりました」と涙で伝えてくれました。初盆の一日に思い出が蘇り、最高の一日になってくれたとしたら、嬉しいことです。あの頃と変わらないSさんの表情がここにありました。移り行く時間は無常ですが、時には思い出をまろやかに醸成させてくれるような効用があります。止まっていたように思った時間でしたが、気が付くと30分以上が経過していました。

Kさん。志半ばに病に倒れ、当時、59歳、職場を現役のまま去っています。生きていたら関係していた紀の国わかやま国体の仕事で、今頃は暑い夏を忙しく過ごしていたことだと思います。昨日、職場の同僚がお参りに来てくれたと話してくれたように、同僚や教え子から愛された方でした。

Kさんの教え子で今は教師の道に進んでいる先生を知っていますが、「K先生の影響があったかも知れません」と話していたことを思い出しました。思い出と共に同じ道を歩む人を育てていたのですから、素晴らしい人生だったように思います。人材を残すことは人にとって最大の仕事であり、現在の和歌山市の教育界を支えている人材が現役で活動していることを一番嬉しく思っているのはKさんだと思います。

最期の時は自分では分かりません。思い出せるたくさんの良い思い出と、人材を残すために過ごすことが人生において大切なことだと感じました。

Tさん。元気に過ごしていたのですが、突然40度を超える高熱が発症し、今年5月にこの世を去りました。最高45度まで体温が上昇したと聞き、体温はそんなに上がることを知りました。「寝ている間に高熱になって意識がなくなっていたので、本人は苦しまなかったと思います」と話してくれました。何かの影響で病原菌が脳に入り込み、治療の術がなかったようです。「本人は自分でも死ぬとは思っていなかったので、後の整理が大変です」というように、突然の別れは後の時間を止めてしまうようです。

生きられることが当たり前だと思っていますが、それは当たり前のことではなくて神の仕業と思えるようなバランスの中で生きているように思います。

明日に向かって今を生きる。今という時間に存在している私達ができることはそれだけですが、今に感謝することができることは幸せだと思います。

Nさん。肺癌のため「余命半年なので今年のお正月は迎えられない」伝えられながらも平成27年のお正月を迎えられたNさん。新年を迎えた後でお亡くなりになりました。かつての同僚や後輩がお参りに来ていました。奥さんと思い出話を交わした後、玄関から「こんにちは」と挨拶があり、次のお客さんが来たと思い席を立って玄関に向かった時、Cさんが訪問者でした。昨日も会ったので「今日も会いましたね。Nさんのことを知っていたのですか」と尋ねると、「私が新入社員の時に指導してくれた直属の長がNさんでした」と話してくれました。ご縁とは不思議なもので人と人をつなげてくれます。Nさんを介して更に親しくなりました。故人が結びつけてくれたご縁に感謝したくなります。