平成26年10月17日の金曜日、午後7時から通夜式を行うことにしました。父親の希望もあり家族葬にすることにしたのですが、あちらこちらから問い合わせをいただきました。
大切な時間を共にしてくれる皆さんに来ていただけることは幸せなことですし、家族葬とは言いながらも皆さんにきていだき立派な通夜式となりました。お仕事でお疲れの中、そして突然のことにも関わらず皆さんに来ていただいたことに心から感謝しています。きっと父親も、今は言えないけれど天上から感謝の言葉を述べてくれていると思います。
通夜式までの一日は、実家での目覚め、父親へと挨拶、午前中は家族とゆったりとした父親とのお別れの時間を過ごし、午後1時30分に式場からお迎え、午後2時からお別れの儀式がありました。お別れの儀式とは髭剃り、身体を洗うこと、お風呂に入ること、白装束に着替えること、そして入棺までの流れの式のことで、それを直接見ることができるのです。きれいになっていく父親を見ていると、少し幸せな気持ちになりました。身体は力を失っていますが、お風呂に入りたくても入れなかった日々、喉が渇いて水が飲みたいと言っていたけれど飲めなかった日々から解放されて、お風呂に入りお水も飲むことができているからです。
自分で服が着られない赤ちゃんのように見えましたが、老いることは赤ちゃんに戻ることだと感じました。生まれる時は皆さんの力を借りています。やがて自分で自分のことができるようになり、老いが訪れると再び、自分ひとりでは自分のことができなくなります。死は自らの身体を他人に任せることを意味しています。自分の意思がなくなり身体をどうするのかを他人に任すことになるのです。入浴も着替えも、自分でできない赤ちゃんのような存在で、それが次の世界に旅立つ準備のように感じました。この世を去る時も他人の力を借りている。そしてこの世界を旅立った後は、次の世界で生まれる瞬間を迎えるような感覚がありました。
そんな旅立ちのお手伝いをしてくれた二人の方の心のこもった仕事に感謝しています。素晴らしい旅立ちの準備をしてくれたのです。悲しみを幸せに転換させるような人の役に立つ素敵な仕事だと感じました。
しかし入棺した後は、これまでここにいた身体が棺の中の存在になってしまい、父親が一気に遠い存在に感じました。これまでの時間も遠いところに行ったと感じていたのですが、そこからもっと先の世界まで遠ざかったように感じるのです。棺が、父親を今の時間から隔離してしまったように思います。ここから生きている人とこの世を去った人との時間に差を感じるようになりました。止まることなく進んでいる時間で生きている人と、止まった時間の場所にいる人。その時間距離はどんどん遠くなって行きます。今日は数時間ですが、明日になれば1日、その次の日になれば2日と距離が増えていきます。そんな時間がこの先に待っていることを思うと寂しくなってきます。
通夜式の打ち合わせを行い、午後7時から通夜式を開式しました。1時間の式は皆さんの参列によって勇気付けられました。お別れの時に人といることで寂しさや辛さが忘れられることに気付きました。一人や家族だけでいると、きっと長くて遠い時間に辛さが募ってしまったように感じます。皆さんが来てくれている時間の中では、そんなことを思う時間はなく、皆さんにただただ感謝するばかりでした。
午後8時に閉式し再び父親と過ごす時間となりました。親族控え室で父親の傍でいたのですが、蝋燭と線香を取替える時間が父親との会話の時間だと知ることになりました。蝋燭と線香を取り替えるのは、きっと故人と会話する時間を確保するためだと思います。自分がすべき作業があることでそのことを気にするので、寝てしまわないで最後の会話を交わすことができるのです。そんな一日が終わり朝を迎えました。いよいよ別れの朝の始まりです。