晴天の美浜・五木ひろしマラソンの当日となりました。美浜町の一大イベントであり、26回も続いているマラソン大会です。朝から気温が上昇しマラソンを走るには辛い環境になっていますが、一緒に行った皆さんは走り切ってくれました。
主催者は美浜町であり、美浜町出身の五木ひろしさんも主催者となっています。6月1日に開催したのは理由があります。美浜町が誕生してから60周年の年であり、五木ひろしさんの芸能生活が50周年を迎える年であること。そして五木ひろしさんの母親の命日が前日となる5月31日だったことから、前夜祭の地元コンサートをどうしても母親の命日に開催したいという希望があったからだそうです。昨日のコンサートで五木ひろしさんは、デビュー曲から最新の曲まで思い出の30曲を歌い上げたと聞きました。故郷への思いと育てくれた皆さんへの感謝の気持ちが伝わったと、開会挨拶の中で美浜町長が触れていました。関係する皆さんのたくさんの思いが詰まった26回目のマラソン大会となっています。
ゲストランナーとして、パックン・マックンとシドニーオリンピックマラソン女子代表の市橋有里さんが参加していました。市橋さんを見るのは初めてですが、以前、新聞記事のインタビューを読んで「素敵だな」と思っていることを思い出しました。記事のタイトルは「未来へ送り出してくれた校長」です。
その記事では次のようなストーリーがありました。
市橋さんが中学生の時、陸上で実力を発揮したいので東京へ行くか地元の高校に進学するか迷っていたのです。しかし中学校卒業する一年後に、市橋さんの地元徳島県で東四国国体が予定されていたので、地元の強豪高校の先生からスカウトされていたり、市長からも「残って欲しい」と直々に頼まれていたのです。そんな勧誘攻勢に対して、当時の中学校の校長先生は「この子の未来を考えるなら喜んで送り出してあげましょう」と間に入って東京行きを後押ししてくれたのです。市橋さんがそのことを知ったのは、後になってからです。その後、自分の意思によって東京の高校に進学し、しかも陸上部に入らないで活動拠点を東京ランナーズクラブにしたため、高体連の大会にはできませんでした。そのため、実業団の大会に参加することになったのですが、高校二年生までは最下位で終えることもしょっちゅうだったようです。
しかしその実業団レースで走った経験があったことから、シドニーオリンピック出場を果したのです。
それが記事の内容ですが、市橋さんを見たことから、オリンピックという夢を実現させた市橋さんを未来へ送り出してくれた校長先生の話を思い出しました。岐路に立っている時に未来へ送り出してくれる人が存在していることは素敵なことです。市橋さんが美浜・五木ひろしマラソンにゲストとして来ているのはシドニーオリンピックに出場したからであり、それは東京の高校に進学してレベルの高い実業団の大会で鍛えられたからです。そしてそこに至るには未来の扉を信じた中学生の市橋さんと扉を開けてくれた校長先生がいたからです。
開会式会場にいて、そんな素敵なストーリーが浮かびました。そんなストーリーを蘇えらせてくれたことに感謝しました。
しかし気温は暑く、摂氏30度を超えていたと思います。厳しいコンディションの中、走り出したランナーの姿がありました。美浜の海岸を走る光景は、当時と変わらないままでした。
美浜・五木ひろしマラソンは12時頃には終了し、和歌山市へ向かいました。午後6時頃には和歌山市に到着し、応援団、ランナーと別れました。二日間という短い時間でしたが、楽しい行程になったことを皆さんに感謝しています。