竈山神社の清掃活動を行いました。片桐章浩を支援する会として定期的に竈山神社の清掃を行っているのですが、今日は今年初めての清掃活動となりました。イベントや式典が重なったため参加者は10名と少なかったのですが、境内にあるたくさんの落ち葉を掃いてきれいにすることができました。境内にある山のような落ち葉を掃いていくに連れて、心もきれいになっていく感じがあります。清掃は心を清めることだとして清掃をしている人がいますが、それと同じような感じがありました。
心は見えないけれど、境内を清掃してきれいになっていく様子は見ることができます。積もった落ち葉を掃いてその場から消えていくと、玉石や苔が姿を見せてくれます。白石や緑の苔が浮かび上がると清らかな気持ちになっていくのが分かります。心に積もったものは見えないけれども、きっと落ち葉のようなものがたくさん積もっていると思います。それは自らに向けられた批判であったり、他人から受けた嫌な思いなどのようなものです。それらは心の中に落ち葉が積もっているようなものです。境内を清掃することで心もきれいになっていくのは、現実の汚れを清めていくことが、心を清めていくことと連動しているからだと思います。
その証拠となるのが清掃をし終えた後に訪れる爽快な感じです。清掃を終えた後に心地良くなるのは、心も清らかになっているからです。身体と精神も連動していて、身体が心地良くなると心も清くなります。逆に心が清くなると身体も健全になっていくと思います。
清掃をしていると不思議なことに、少しでも落ち葉が残っていると気になるのです。1枚の葉でも残さないようにと思って、自らの意思で清掃の範囲を広げていきます。その結果、掃除をする範囲が拡大していくので、より境内がきれいになっていくのです。誰も見ていないから手抜きをするのではなくて、誰も見ていなくても自主的な活動をするようになるのは、清掃と共に心が清められていくからだと思います。
皆さんと清掃活動に交わした言葉は「気持ちが良いですね」、「身体が温まり心地良いですね」と言ったものです。
只でさえ冷厳豊かな竈山神社の境内ですから、その場所を清められることは心を清めているように思います。落ち葉がなくなり境内の石や土が見え始めると、この土地からのエネルギーを受け取れるような気持ちになります。雨天でもあり急いで清掃をしたことも、この活動に集中できた要因に思います。
清掃後は参加したみんなで、恒例になっている手作りのお餅をいただきました。餡を作るのに1時間を掛けていることを知り、美味しい理由を見たように思います。同じ目的を持って一緒に汗を流すことの気持ち良さを体験する清掃活動となりました。参加いただいた皆さんに感謝申し上げます。
父親の様子を見てきました。最近、自分の時間を確保することが少ないため、中々顔を見に行くことができていませんでした。竈山神社の清掃を終えた後に時間が取れたので、父親のところに行ってきました。それほど様子に変化がなかったことに安心したのですが、以前よりも腕が細っていることに気付き、寂しい思いがありました。いつも身に付けている腕時計が、手首の部分が細くなっていることからぶかぶかになっているのです。また歩く機会が少なくなっていることから、足も細くなっていることが気掛かりですが、会話もできますし顔色も良いので安心感の方が強く感じました。
「いつまでも元気で」と思うばかりです。いつも「もっと頻繁に来なければ」と思うのですが、そうなっていないことを反省しています。帰り際に、廊下に貼っていた父親の書いた毛筆の「花見」という書を見て、「書を書くことがあるんだな」と心が微笑んでいることを感じました。