活動報告・レポート
2013年11月7日(木)
特別委員会視察二日目

特別委員会視察の二日目です。被災した太平洋セメントと大船渡市吉浜地区を訪問しました。太平洋セメントは被災した時はもう復興できないと思っていたほどの痛みがありましたが、その後工場は復興したうえ、工場内で瓦礫処理も行っています。しかも瓦礫処理に際して瓦礫を分別し、セメントの材料や燃料にするなど廃棄物をゼロにする取り組みをしています。

太平洋セメント 太平洋セメント
太平洋セメント

この取り組みは全国に知れるところになり、今年の夏には天皇陛下も太平洋セメントを訪問されています。大船渡市の復興のシンボル的な工場であり、復興した後は益々地域に欠かせない工場として稼動を続けています。太平洋セメントは全国にある工場の内、平成22年度に三箇所の工場を閉鎖しています。その翌年、東日本大震災が発生しました。そのためセメント需要が必要となり、セメント工場の存在意義は増しました。大船渡工場があることで瓦礫処理とセメント製造により復興が図れています。

太平洋セメント

移動の途中、津波被害に際して一本だけ残った奇跡の一本松を見ることができました。奇跡の松であり希望を灯してくれた松ですが、根元の腐食が酷いためこの状態を保つことは難しいことや修復も難しいということです。近々撤去されることになると聞いて残念に思っています。しかし津波に耐えて今日まで頑張ってくれた奇跡の松を見られたことで、復興への希望を感じました。

続いて奇跡の集落と呼ばれた吉浜地区の現場を訪ねました。何故、奇跡の集落と呼ばれたかというと、この地区では一軒の被害もなかったからです。それは明治29年の三陸大津波の後、新沼村長の指導によって吉浜村の家屋を全て移転させたことが要因です。明治時代に高地移転した集落が現代までその地を離れなかったことから被害に遭わなかったのです。明治時代から平成時代までの100年以上、かつての津波被害の記憶を留め、決して津波被害を受けた場所に家屋を建てなかったことが奇跡なのです。東北の他の地域でも明治の大津波によって移転した地域があるようですが、記憶が風化すると共に、再び、その場所に家屋が建設されています。そんな地域は明治時代と同じようにその場所は被害に遭っています。

奇跡の集落は、明治29年の大津波被害に逢った場所から集団移転していること。そしてその時の教えを継続して守り続けていることから、東日本大震災において被害がなかった地域として奇跡の集落、外国からはミラクル・ビレッジと呼ばれたのです。

災害の記憶は体験した世代を超えると意外と早く薄れるものです。ここでは災害の記憶が親から子どもへと継続して伝えられてきました。その教えを守り、津波が予想される場所への家屋建設はされていませんでした。大船渡市三陸町吉浜地区の現場の視察と現地での説明を聞いて、危険場所からの高台移転は時間がかかるものの、長期的な取り組みとして必要であることが分かりました。現代においても高台移転が長期的対策として必要な地域があります。リーダーは反発があったとしても、将来の地域の安全と健全な発展のために安全な場所への集団移転も含めて防災対策を講じることも考えたいところです。

吉浜地区では、この集団移転を行った新沼村長のことを誇りに思って今に語り継いでいます。

そして吉浜から三陸鉄道に乗車しました。乗ったのは三陸鉄道の南リアス線で、震災について学ぶため、震災学習列車に乗車しました。これは所掌さんが電車に乗り込み、震災の状況の説明と被災場所に停止して説明をしてくれるものです。

震災を学び感じることができる震災学習ができました。この震災学習列車の運行は平成26年3月14日までの期間なので、今を逃せば次の機会はありません。貴重な体験をすることができました。

この中で特に印象に残ったことがあります。三陸鉄道の線路が防波堤の役割を果し、線路の背後にあった集落の被害はなかったのです。残念なことに線路よりも海側の集落は家屋が流され、現在も空き地のままになっています。線路や高速道路は防波堤の役割を果たしてくれるものでもあり、和歌山県では是非とも早期建設につなげたいものです。

そして三陸鉄道の駅舎の中には避難場所に指定されているところがあります。津波が発生した3月11日には、駅近くの小学生がこの駅に避難したそうです。地域と密着した三陸鉄道であることを感じました。