552.生き方
 人として生きる方法は自由ですが、他人に迷惑を掛けたり社会に反することは自由の範疇ではないのです。もっと言えば、天道に背くことは許されないことを肝に銘じておきたところです。他人に迷惑を掛けることは、自分のために他人の気持ちと時間を犠牲にさせることですから、歓迎して受け入れてくれる場合を除いて極力、お互いが良くなる方向で調整したいものです。

 子どもの頃によく「お天道さまが見ている」と言われたことがありました。最近、この言葉を使ったり聞くことは余りありませんが、その意味するところが分かってきたように思います。誰も見ていないからといって悪いことをしては駄目なのです。誰も見ていなくてもお天道さまが見ている、それは自分の心に背くことをしてはならないとの戒めなのです。暗いところや夜に犯罪は多いのですが、それは誰にも見られていないことから良心が闇に閉ざされてしまうからです。明るいところや人がいるところでは良心が勝りますが、暗いところや人が見ていない場所では、場合によっては違う心が芽生えます。

 どんな場所では誰も見ていない場面はないのです。絶対にお天道さまが見ていますし、自分の心もまた自分の行動を見ています。誰も見ていないところでも自分の心に沿った行動をすることが生き方です。自分の背後にもう一人の自分が常にいて、行動を見ていると考えると不審な行動はできっこないのです。
 自分の心になるべく沿った生き方をすることが、自分を生きていることなのです。自分の心に従って自分の人生を生きることは、決してお天道さまに見られても恥ずかしくないのです。それが最高の生き方だと思います。

 ですから、社会に反することも同様の考えで行うべきことではありません。社会とは人と人の約束と信頼で成り立っていますから、一人が社会規範を無視すると混乱が生じます。

 今日も目撃しましたが、自動車で交差点に差し掛かると、前方左から赤信号で平然と横断している歩行者がいました。自動車側の信号が青でも歩行者を撥ねる訳にはいきませんから、ブレーキをかけて渡り終えるのを待つことになります。そうしたら、後続車も含めて本来一回の信号で通過できる筈の自動車が通過できなくなり、結果として渋滞を招くのです。

 赤信号で渡っている歩行者は、赤信号で渡ったくらいと思っているのでしょうが、一人のために多くの人が迷惑することになります。それ以上に社会のルールを守れない大人の存在がその周囲に及び、一定以上の数に到達すると「100匹目の猿」の例えのように、社会規範が崩壊することになります。秩序の乱れた地域社会は犯罪多発地帯となりますし、教育なども荒廃します。人の気持ちと社会規範を守ることは連動しているので、心のきれいな人が住む地域は安全で心の日当たりの良い地域形成ができますが、反対の場合、日陰となり、人が見ていないところでは何をしても良いとの思いが増殖し、益々地域は乱れていきます。
 人の気持ちが形となって現れるのは必然です。

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