和歌山市内のある中学校の入試がありました。受験生には、次のような課題が与えられたそうです。
あるまちの書店。中学生が本を万引きして逃げました。店員が警察に通報すると同時に中学生を追い掛けました。ところが踏切に進入したところ電車が来て中学生ははねられて死亡してしまいました。その結果、書店の店員は、人殺しと言われるようになりました。あなたはどう思いますか。
如何でしょうか。大半の受験生は、店員は悪くないとの回答でした。どちらが悪いことをしたのか理解しているようです。結果は中学生が死亡したことになっていますが、死亡に至る原因を作ったのは中学生本人で店員ではありません。店員は反社会的行為を見逃さないための行動を取ったに過ぎないのです。
これと比較して最近の社会風習として、加害者の人権擁護が強調され被害者が責にあうことがあります。加害者の人権を擁護するあまり、何の落ち度もない被害者が非難されることもあります。今回の課題では店員が中学生を死亡に追いやったことを指して、そこまで追い掛けるべきではなかったと言われるようなものです。確かに店員が追いかけなければ中学生は死亡することはなかったかも知れません。
しかし店員が追いかけなかった場合、店員は経営者から必要のない批判をされることになりますし、経営者としては損失を計上することになります。中学生の行為によりふたりの利益が損なわれるのです。
そして万引きした中学生は利益と成功の機会を得たことから、再び次の万引きなどの行為の可能性を秘めることになります。成功体験は次の成功体験に向かわせるからです。万引きの成功体験は次の行動に移させることになりますし、更に大きな犯罪行為に向かうことも考えられます。これを未然防止させる店員の行為を批判することは出来ないと考えるのが妥当です。
社会的正義感に基づいた行為を批判する社会であり続けると、正義感に基づいた行動をとる人は少なくなってしまいます。悪いことを追いかけずに見逃す行為は、次第に見て見ないふりをすることになり人の精神を荒廃させます。荒れた精神はやがて社会の荒廃を招きますから、秩序の保たれない社会に転落します。小さな正義を称えることこそ私達がすべきことなのです。
導かれた結果は残念ですが、結果よりも小さな正義を失うことの方が影響は大きいのです。ですから中学生には、たとえ小さなことでも反社会的行為が許されないことを教えるべきです。生命が最も大事なものであることに争いはありませんが、正義や覚悟、そして志は生きていく上で最も大切なことです。時代が変わろうとも、人には決して無くしてはならない心があるのです。
課題は単純化されたものですが、実社会ではどちらが正義か悪か分からない場合があります。その時の判断は自分の心以外にありません。自分の心が正義であれば、正しい判断に基づいた行動を起こせますし、心が悪だったらその行動も悪になります。自分の周囲の事象の全ては自分の心から発生するものです。
|