470.信用の連鎖
 今年ほど、偽装や企業や組織の不祥事が多かった年はなかったと思うほどです。企業や集団に対する不信感は高まっていますが、良い方向に向かっているものではありません。不信は不信を招きますから、連鎖としては好ましくありません。批判は批判を呼びますが、愛情は愛情を招きます。良い連鎖は良い連鎖を招きますが、その逆も同じです。

 信用に関して本質を突いていると思っている時評があるので紹介します。
 筆者は関根 泰次氏で、平成19年8月20日のものです。
 「たとえば専門家Aという人が専門外のことを判断する場合、Aはそのことについて別の信用できる専門家Bの判断によるのが普通である。しかしその専門家Bもある部分については別の信用すべき専門家Cの判断によらざるを得ない。
 別の言葉で言えば信用は小さな信用の連鎖の上に成り立っているわけで、どこかで判断が狂えばその影響は連鎖的に広がり、不信の連鎖反応ともなりかねない。部分的な判断の誤りはその判断を基にしているすべての人々に対する不信という形で現れる。マスコミからの情報をほとんど唯一の情報源とする一般の人にその連鎖の仕組みについて理解を求めることは容易ではない」

 私達は、事件の本質を知ることは出来ません。間接的に知ることが殆んどで、それもマスコミからの報道によるものが一般的です。マスコミが報道するのは独自の取材によるものもありますが、記者発表を受けて質疑した内容も含めて記事にする場合もあります。つまり当事者や主催者からが用意した内容のものを聞いて、私達に分かりやすく解説する形で記事にしてくれているのです。情報にはフィルターが掛かっていますから、マスコミであっても本質に迫ることは難しいのではないでしょうか。仮に運よく当事者に接触出来たとしても、取材に対してまたは初対面の相手に対して、当事者にとって不都合な事実を伝えることはしないのが常識的なことです。

 つまり当事者以外に事実を知る人はいないのです。そして当事者が伝える情報も一部は事実でしょうけれど全てが事実ではありませんから、その言葉は本質を現すものではありません。
 関根氏の時評にあるように、専門家の判断は信頼出来るものですが、専門化されている現代社会において全ての分野に専門知識を有している人は少ないと思います。ですから専門家と言っても専門外のことはその専門家に委ねていることがあり、そのつなぎ目などで判断違いがあると、報道される段階で、その判断の全てに対して不信感を招くことになります。そして一度不信感を持たれると、それを払拭するのは並大抵のことではありません。

 不信の連鎖を止めるのは、その本人が社会から退場するか、関心の対象が他に移るかなどの変化があった場合ですから、不信を発信した本人が直接的に阻止することが困難であることが問題です。長く使命感に燃えて社会的役割を担って来た人や組織を一瞬で抹消してしまう社会の怖さを感じます。良いところの評価も少しは必要かと考えます。

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